昼間は至つて穏かで、さらさら幽霊の気配などはありましねえのに、あたりが薄暗くなりかけるてえと、どうでがせう。屋の棟を見ると、ちやんと畜生め、煙突に跨がつてゐくさるんで。」
「団子をくはへて?」
「ええ、団子をくはへてね。」
「変だねえ! わしもそんなやうな話を聞いたつけが、なんでも、死んだ女が……。」
かう言ひかけて村長は口をつぐんだ。窓の下でがやがやいふ声がして、踊りの足拍子が聞えだしたのである。はじめに低くバンドゥーラの絃の音がすると、それに合はせて一人が歌ひだした。絃の音がひときは高くなると同時に、幾人かの声で合唱をやりはじめた――歌声は旋風のやうにどつと沸きあがつた。
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みんな、どうだい、聞いたかい?
おいらの頭はしつかりしてるが
めつかち村長のどたまの箍は
えらくゆるんでグラグラしてるぞ。
桶屋、はめろや鋼鉄《はがね》の箍を!
鋼鉄《はがね》の箍はめ、ポンと打《ぶ》て村長を!
桶屋ぶてぶて、村長のどたまを
棒でぶてぶて、鞭で打て!
おいらの村長は白髪でめつかち、
悪魔におとらぬ老爺《ぢぢい》の癖に、
阿呆め、浮気で甚助野郎、
若い娘みりや、あと追ひまわす。
間抜め、おいらの邪魔するよりは、
とつととすつこめ墓場の中へ!
さあさ、あいつの口髭ひつぱり
首根つこひつぱたいて、房髪《チューブ》をむしれ!
[#ここで字下げ終わり]
「なかなか巧え歌ぢやごわせんか!」と、蒸溜人《こして》は少し横へ頭をかしげながら、その大胆不敵な所行に呆れ果てて棒立ちになつてゐる村長の方へ向きなほつて、言つた。「なかなか面白い! だが、村長さんのことをあしざまに詠みこんだ点だけは怪しからん……。」
それから彼は、再び両手を卓子のうへに載せると、その眼に一種甘美な情緒を湛へたまま、なほも聴耳を※[#「奇+攴」、第3水準1−85−9]てたが、窓の下では笑ひ声と共に※[#始め二重括弧、1−2−54]さあ、もう一度! もう一度!※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ叫び声が聞えてゐた。ところで、少し目端のきく人ならば、村長が決して驚愕のあまりその場にじつと立ち竦んでゐたのでないことに直ぐ気がついたであらう。ちやうどこんな風に、老獪な猫は世なれぬ※[#「鼬」の「由」に代えて「奚」、第4水準2−94−69]鼠《はつかねずみ》に自分の尻尾のまはりを勝手に跳ねまはらせておきながら、おもむろに相手の逃げ道を断つ手段を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らすものである。村長の独眼はじつと窓へ注がれてゐたが、やがて村役人の方へチラと合図をすると同時に、彼の手が戸口の把手《とつて》のかかつた。と、不意に往来で叫び声があがつた……。数々の美質を具へたが上にも多分の好奇心に恵まれてゐた蒸溜人《こして》は、すばやく煙管《パイプ》に煙草を詰めるなり、戸外《そと》へ駈け出したが、わるさ連は逸速く逃げ去つたあとであつた。
「どうして、逃げようつたつて逃げられるこつてねえぞ!」と、黒い羊皮の皮外套《トゥループ》を裏がへしに、毛の方を表にして著こんだ一人の男の手を捉へて、曳つぱつて来ながら、村長が呶鳴つた。蒸溜人《こして》は待つてましたとばかりに、その秩序紊乱者の顔を覗きこんだが、長い髯と物凄く隈取つた面相に出つくはすと、ぎよつとして後ろへ跳びのいた。「どうしてどうして、逃げようたつて駄目だぞ!」村長は捕虜をひつ立てて玄関の方へまつすぐに進みながら喚いた。捕虜は少しの抵抗《てむかひ》もせずに、まるで自分の家へでも入るやうに落ちつき払つて村長の後ろにしたがつた。「カルポー、納屋をあけい!」と村長は村役人に言つた。「こいつは暗がりの納屋へぶちこんでおかう。さうしておいて、助役を起したり、村役人を召集して、同類のやくざどもを残らず逮捕して今夜ぢゆうに彼奴らを処分してしまはにやならん!」
村役人は玄関口で小さな海老錠をガチャガチャ鳴らして納屋の戸を開けた。ちやうどその時、捕虜は玄関口の闇に乗じて、突然、おつそろしい腕力で捕手の手をすり抜けた。
「汝《うぬ》どこへ行きをる!」とばかりに、村長はむんずとその襟髪を掴んだ。
「放しておくれ、わたしだよ!」といふ細い声が聞えた。
「駄目なこつちや! どうしてどうして、畜生め、女の声を出しをらうと悪魔の作り声をほざかうと、おれを誤魔化すこたあ出来ねえぞ!」さう言ふなり村長が、捕虜を暗がりの納屋のなかへ力まかせに突き飛ばしたので、哀れな捕虜は呻き声を立てたほどであつた。それから村長は村役人をつれて助役の住居《うち》へと出かけた。その後ろからは、まるで蒸汽船のやうに煙草の煙を吐きながら、蒸溜人《こして》がついて行つた。
彼等は三人とも首を垂れて、めいめい物思ひに沈みながら歩いてゐたが、暗がりの路地へ折れる曲りかどで、不意に、むかふからやつて来た連中とこつぴどく鉢合せをして一斉にあつと叫んだ。同じやうな叫び声がむかふでもした。村長が独眼をしばたたきながら前方を見ると、魂消たことに、当の助役が二人の村役人をつれてこちらへやつて来るところであつた。
「おや、助役さん、わしは今、あんたのとこへ行くところぢやが!」
「手前は又、あなたのお宅へ伺ふところでして、村長さん!」
「奇怪《けち》なことが起りをつてね、助役さん!」
「いや、こちらにも奇怪《けち》な事件がありましてね、村長さん!」
「ふん、どういふ?」
「若い者どもが暴れまはりますんでな! 往来ぢゆうを、隊を組んで荒しまはつてをりますよ。あなた様のことを、いやどうも……口にするのも小つ羞かしい言葉で囃し立てますが、それこそあの酔つぱらひで不信心な大露西亜人《モスカーリ》でも口にするのを憚かるやうな、如何はしい言葉でしてな。(かう言ひながら、縞の寛袴《シャロワールイ》に糀いろの胴着を著こんだこの痩形の助役は、しよつちゆう、頸を前へぬうつと伸ばすかと思ふと、すぐに又もとの姿勢にかへる妙な動作をくり返すのだつた。)手前がちよつと、うとうとつとしたかと思ひますと、忌々しい暴れ者どもめが、卑猥きはまる唄をうたつたり、ガタガタ戸を叩いて、目を醒まさしてしまひをりましたんでな! こつぴどく叱りつけてやらうと思ひましたが、寛袴《シャロワールイ》をはいたり胴着をきたりしてゐるうちに、雲を霞と逃げうせてしまひをりました。それでも、首謀者らしい奴だけは取り逃がしませんでしたよ。今、あの科人《とがにん》を拘留する小屋の中で大声を張りあげて唄をうたつてをりますがね。どうかして彼奴《きやつ》の正体を見届けて呉れようと思つたのですが、亡者の磔《はりつけ》につかふ釘を鍛《う》つ悪魔そつくりに、顔ぢゆうを煤で塗りたくつてをりますのでして。」
「で、そいつはどんな服装《なり》をしてゐるね、助役さん?」
「黒い皮外套《トゥループ》を裏がへしに著てうせるのですよ、村長さん。」
「それあ、ほんとに間違ひのない話かね、助役さん? もしその同じ張本人が、わしがとこの納屋に坐つてをるとしたらどんなもので?」
「いんにや、村長さん! さう言つちやあなんですが、間違つてゐなさるのは、あなたの方ですて。」
「灯《ひ》を持つて来い! ぢやあ一つ首実検といふことにしよう!」
灯りが取りよせられて、戸が開かれた――と、村長は眼の前に自分の義妹《いもうと》の姿を見て、驚ろきのあまり、あつと呻いた。
「まあ、お前さんつたら、」さういふ声と共に、女は村長に詰め寄つた。「すつかり耄けてしまつただね? あたしを真暗な納屋んなかへ突つこかしたりしてさ。その一つ目小僧のどたまにやあ、これんばかしでも脳味噌があつたのかい? ほんとに鉄鉤《かぎ》に頭をぶつつけなかつたのが目つけものだよ。あたしだよつて、お前さんに言つたぢやないか? この忌々しい熊つたら、鉄みたいな手で人をひつ掴んで突きたふすんだもの! あの世へ行つて悪魔に思ひきり突つつかれるが好い!……」
この最後の捨科白をいひ放つた時、彼女はもう戸の外の、往来へ出てゐたが、それは自分の生理的な用事で外へ出て行つたのである。
「なるほど、これあ、お主ぢやつたわい!」と、村長は我れに返つて言つた。
「どうだね、助役さん、そのやくざ野郎は実は忌々しい悪党ぢやねえか?」
「悪党ですとも、村長さん!」
「もう好い加減に、あのおつちよこちよい共に、うんと一つお灸をすゑて、これからは仕事に身をいれるやうにしむける時分ぢやなからうかね?」
「ええ、もう疾つくにさうしなきやならなかつたのですよ、村長さん!」
「あの馬鹿者どもめが、増長しをつて……。はあて? 往来で義妹《いもうと》の声がしたやうぢやが……。馬鹿者どもめ、つけあがりをつて、わしを同輩かなんぞのやうに思つてけつかるのぢや。このわしを奴らの仲間の、普通《なみ》の哥薩克だとでも考へてけつかるのぢや!……」その言葉についで発せられた軽いしはぶきと、額越しにあたりへ投げられた一瞥とから、村長が今や、何か勿体らしい話を持ち出さうとしてゐることが予測された。「一千……と、ええ、この面倒くさい年号と来た日にやあ、ぶち殺されたつて、すらすら言へるこつちやないが、さて……年に、時の代官レダーチに対して、哥薩克のうちから最も才幹ある者をひとり選び出せといふ命令が下つたのぢや。おお!(この『おお』といつた時に村長は指を高くさしあげた)最も才幹ある者を! 女帝陛下の供奉のために択べといふ命令なのぢや。わしはその時に……。」
「仰つしやるまでもありませんよ、村長さん! それはもう誰でも知つとることです! あなたが廷室の恩寵に浴されたといふ話なら、みんなが知つてをります。時に、手前の申し分が勝ちで、あの皮外套《トゥループ》を裏がへしに著た暴れ者を捕へたなどと仰つしやつたのは、何かの間違ひだつたことは、お認めになりませうな?」
「その裏がへしの皮外套《トゥループ》を著た畜生といへば、ほかの奴らの見せしめに、足枷でも掛けて、思ひきり懲らしめてやることぢや! 官権《おかみ》の力がどんなものか思ひしらしてやることぢや! そもそも村長たる者は皇帝《ツァーリ》からでなくて誰から任命されてゐると思ふとるのぢや? あとで他の奴らも懲らしめて呉れよう。わしはちやんと憶えとる、あの碌でなしの暴れ者どもが、わしの野菜畠へ豚を追ひこんで、胡瓜やキャベツをさんざん食ひ荒させたことも、あの悪魔の忰どもが、わしのうちの麦搗きを拒んだことも、それから忘れもせぬが……。いや、そいつらのことは兎も角、わしはその、裏返しの皮外套《トゥループ》を著た悪党がいつたい何者か、是非ともそれを検べなくちやあならんのぢや。」
「そいつは、よつぽどすばしつこい野郎だと見えるて!」と、以上の会話のあひだぢゆう、まるで攻城砲に煙硝を填めでもするやうに、ひつきりなしに煙草の煙を頬に詰めこんでゐた蒸溜人《こして》が、例の短かい煙管《パイプ》を口から離すなり、ぱつと煙の雲を吐き出してから、言つた。「そんな手合は万一の場合に備へて酒倉のなかに繋いでおくのが先づ上分別だが、栄福燈の代りに樫の樹の天辺にひつ懸けておけば、申し分なしだて。」
蒸溜人《こして》にはこの駄洒落が、われながら上出来だつたと思はれたので、他人《ひと》からの讃辞も待たずに、さつそく嗄がれた高笑ひをあげて、われから悦に入つたものである。
その時、一同は小さな、殆んど地面へ横倒しになりかかつてゐる小屋へと近づいた。一行の好奇心はいよいよ募つて、彼等は戸口へ犇々と押し寄せた。助役は鍵を取り出して、錠のあたりでガチャガチャ音を立ててゐたが、それは自分の家の長持の鍵だつた。一同はいよいよ我慢がならなくなつた。助役は衣嚢《かくし》へ手を突つこんで鍵を捜しはじめたが、なかなかそれが見つからないのでぶつぶつと呟やいた。
「あつたあつた!」たうとう彼は半身をかしげて、縞の寛袴《シャロワールイ》についてゐた大きな衣嚢《かくし》の底から鍵を取り出しながら叫んだ。
その声を聞くと同時に、一同の心臓はあたかも一つに融け合つてしまつたものの如く、その厖大な心臓がおそろしく
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