つしより濡らした手拭も一筋や二筋ぢやない。あたしやせつなくつて、なんだか胸がしめつけられるやうなの。親身のお父さんでさへ、あたしには仇敵《あだがたき》もおんなしだわ――好きでもない波蘭人のとこなんかへ無理やりお嫁に行かせようとするんだもの。あのひとにさう言つておくれ、うちではもう婚礼の支度にかかつてゐるのだけれど、あたしの婚礼には賑やかな音楽などはなくつて、八絃琴《コーブザ》や笛の代りに補祭がお経をあげるのだつて、ね。そしてあたしは花聟といつしよに踊るのではなく、棺に入れて担《にな》つてゆかれるのだつて。あたしのお嫁にゆくところは暗い暗いお家なんだつて!――そして、屋根のうへには煙突の代りに楓の木の十字架が立つんだつて!』
 あどけない子供がピドールカのことづてを片言で繰りかへすのを聴きながら、ペトゥローはまるで化石にでもなつたやうにその場に棒立ちになつてしまつた。『ええ、情けない、おれはまたクリミヤか土耳古へでも押しわたつて、金銀をうんと分捕つて、しこたま身代を拵らへてから、お前のとこへ帰つて来ようと思つてゐたのになあ、おれの別嬪さん。それもやつぱり駄目か。どこまでも、おれたちふたりは意地の悪い運命の眼《まなこ》にみこまれてしまつたのだ。おれの方にだつてな、いとしい恋人さん、婚礼は挙げられるよ――おれの婚礼にやあ、坊さんがお経をあげるかはりに黒い鴉がカアカア啼くだらう。おれの家はだだつ広い野原で、蒼黒い雨雲が屋根の代りになるのだよ。鷲めがおれの鳶いろの眼球《めだま》をつつき、哥薩克|男子《をのこ》のこの骨は雨露《あめつゆ》に洗はれて、やがては旋風の力でひからびてしまふことだらう。だがおれはどうしたといふんだ? だれを恨み、だれに泣きごとをならべることがあらう? 所詮は神がかういふ運命に定められたのだ! ええ、もう身も心も破滅してしまへばいいんだ!』さう言ふと、そのまま彼は居酒屋をさしてまつしぐらに飛んで行つたといふ。
 祖父《ぢぢい》の叔母は、ペトゥルーシャが自分の酒場へ、それも堅気な人たちなら朝の勤行に詣つてゐる時分に、ひよつこり姿を現はしたのを見てちよつと驚ろいたが、彼が半樽の余も入りさうな大コップで焼酎《シウーハ》を注文した時には、まるで目のくり玉がとびだしさうなほど、相手の顔を見つめたものぢやさうな。この可哀さうな男はどうかしてその悲しみを払ひ落さうと思つ
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