鹿で、あれつきりの人間だからなあ。何もかもあの古狸の仕業さ、けふおいらがみんなと一緒に橋のうへでさんざ弥次りとばしてやつた、あの妖女《ウェーヂマ》の仕業なのさ! ちえつ、ほんとに、このおいらが皇帝《ツァーリ》か、それとも偉え大名ででもあつたら、先づ何を措いても、おめおめと女の尻にしかれてるやうな痴者《しれもの》は一人のこらず死刑にしてやるんだが……。」
「ぢやあ、おいらが骨折つて、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークにパラースカを手ばなすことを納得させたら、お前さん去勢牛《きんぬき》を二十|留《ルーブリ》で譲るだかね?」
 グルイツィコは胡散臭さうに相手の顔を眺めた。浅黒いジプシイの顔には邪《よこし》まで、毒々しくて野卑で、それと同時に横柄な面魂が浮かんでゐた。それをひとめ見た者には、この男の奇怪な心底には只ならぬ魂胆がふつふつと煮えたぎつてゐて、それに対する地上の報いはただ絞首台あるのみだといふことが立ちどころに頷かれた。鼻と尖つた頤とのあひだへすつかり陥《お》ちこんで、絶えず毒々しい薄笑ひを浮かべてゐる口許、火のやうにキラキラ光る金壺まなこ、かはるがはる始終その顔にあらはれる、さまざまな謀計や策略の閃めき――すべてさうしたものが、現にそのとき彼の著けてゐたやうな、一種独特な奇態な服装を要求したかとも思はれた。ちよつとでもさはつたなら、ぼろぼろにくだけてしまひさうな、暗褐色の長上衣《カフターン》、両の肩へ垂れ下つてゐる苧屑のやうな長い黒髪、日焦けのした素足にぢかにはいた半靴――さうしたものがすべて彼の身について、その人柄を形づくつてゐるやうに見えた。
「それが嘘でさへなければ、二十|留《ルーブリ》はおろか、十五|留《ルーブリ》でだつて売つてやらあ!」と、なほも相手の肚をさぐるやうな眼つきで、その顔を見つめながら若者は答へた。
「え、十五|留《ルーブリ》で? ようがす! だが、くれぐれも忘れなさんなよ、きつと十五|留《ルーブリ》ですぜ! ぢやあ手附にこの五留札《あをざつ》を一枚あづけときやせう!」
「よからう、だが、約束をたがへたらどうする?」
「約束をたがへたら、手附はお前さんのものさ!」
「ようし! ぢやあ手拍ちとしよう!」
「よし来た!」

      六

[#ここから6字下げ、35字詰め]
ほい、飛んでもないこつた、うちのロマーンが帰つて来まし
前へ 次へ
全36ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング