つちやないて、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、祖父は心の中で呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]これあ、祭司《をしやう》がとこの牧場ぢやないか。そうら、この籬も祭司《をしやう》んとこのぢや! もう、うちの瓜畑までは、ものの十町とはない筈ぢや。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
だが、祖父が戻つたのはかなり夜更で、煮団子《ガルーシュキ》も欲しくないといつて食はなかつた。兄のオスタップを起して、ただ一言、運送屋たちはもう発《た》つて行つたかと訊ねたきり、毛皮外套にくるまつてしまつた。そして兄が、※[#始め二重括弧、1−2−54]けふお祖父さんは、いつたい何処へ行つてたの?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と訊くと、※[#始め二重括弧、1−2−54]そんなことを訊くでねえ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、祖父は、一層ひしと毛皮外套にくるまりながら答へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]きくでねえだよ、オスタップ、でねえとな――お主、頭の毛が白うなつてしまふだよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]それきり、恐ろしく大きな鼾きを立てはじめたので、瓜畑を塒にしてゐた雀どもが、驚ろいて空へたちあがつたくらゐだつた。だが、爺さん、何の眠つてなぞゐるものか! いふまでもないこと――あの狡い悪党つたら――神よ、希くば彼に天国を与へ給へ!――いつでも、うまく誤魔化してしまふのだ。でなきやあ、歯の浮くやうな唄をうたひ出して、取りあはうともしないのだ。
その翌る日、野良が、うつすら白みかけるが早いか、祖父は長上衣《スヰートカ》を著て、帯をぎゆつと緊め、鋤とシャベルを小脇に、帽子を頭にかぶつてから、濁麦酒《クワス》を一杯ひつかけると、その口を着物の裾で押し拭つて、真直ぐに祭司の野菜畑をさして出かけた。やがて籬も、長《たけ》の低い樫の林もとほり過ぎた。木立のあひだを縫ふやうに小径がうねつて原へ通じてゐる。どうやら、くだんの小径らしい。果して原つぱへ出た。正しく昨日と同じ場所で、やはり鳩舎が頭を出してゐるが、しかし、藁小屋が見えぬ。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、これは場所が異ふぞ。或は、もう少し先きぢやつたかもしれん。藁小屋の方へ曲らにやならなかつたのぢや!※[#終わり二重括弧、1−2−55]で、後へ引つ返して、もう一つの小径について歩き出した――と、藁小屋は見えるが、鳩舎が見えぬ! 向きをかへて再び鳩舎に近づくと――今度は藁小屋が無くなる。野良のまんなかで意地悪く雨がぽつぽつ落ちて来た。で、もう一度、藁小屋の方へ駈けつけると――鳩舎が見えなくなる、鳩舎の方へ行けば――藁小屋が消え失せる。
※[#始め二重括弧、1−2−54]忌々しい悪魔めが、貴様なんざあ、我が子の顔も見られねえで、くたばつてしまやがるとええだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]やがて、雨は盆を覆へすやうな大降りになつた。
そこで爺さん、新らしい靴を脱ぐと、雨にあてて反曲《へぞら》してなるものかと、手拭にくるんで、まるで旦那衆の乗る※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]足《だくあし》の馬そこのけの、韋駄天走りに駈け出した。ぐつしより雨に濡れそぼれたまま番小舎へ這ひ込むなり、皮外套ひとつ被つて、何かブツクサと、さも忌々しさうに、生まれてこのかた、私なんぞ一度も耳にしたこともないやうな、ひどい言葉で、悪魔を罵り立てたものだ。正直なところ、若しそれが真昼間のことだつたら、きつと私は顔を赧らめずにはゐられなかつただらう。
その翌《あけ》の日、眼を醒して見ると、祖父は何事もなかつたやうな様子で、もう瓜畑の中を、西瓜に牛蒡の葉をかぶせて歩いてゐる。午飯《ひるめし》の時、又しても爺さん話に身が入つて、末の弟を、西瓜の代りに鶏ととりかへてしまふぞ、などと言つて嚇かしたりした。そして食後に木で鳥笛を拵らへて、それを自分で吹き鳴らしなどした。それから、ちやうど蛇のやうに三段にうねつた胡瓜を私たちの玩具に呉れた。それを祖父は土耳古瓜と呼んでゐたが、いま時、私はあんな胡瓜は、皆目見たことがない。実際、何でも遠方から種子を取り寄せたものらしかつた。
夕方、晩飯をすますが早いか、祖父は鋤を持つて、晩播南瓜《おそまきかぼちや》の苗床を新規に拵らへようといつて外へ出た。例の呪禁《まじなひ》のかかつたところを通りかかると、つい歯の間から※[#始め二重括弧、1−2−54]忌々しい場所《ところ》だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と呟やかずにはゐられなかつた。そしてをととひ踊りきることの出来なかつた、まんなかの処へ踏みこむと、赫つとなつて、鋤でひとつ地面を打《ぶ》つたものだ。するとどうだらう――彼のぐるりが又もやくだんの原つぱになつて、片方には鳩舎が頭を出してをり、他方には藁小屋があるのだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]うん、鋤を持つて来たのは、もつけの仕合せぢやつたわい。そら、あそこに小径があるぞ! ほら、塚もある! あそこに木の枝が載つとるぞ! それ、それ、火がとぼつとるぢやないか! どうか間違へまいもんぢやぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
彼は鋤を振りあげて、まるで瓜畑へ闖入した野豚に一撃を喰はせようとでもするやうに、こつそり走り寄つて、塚の前で立ちどまつた。火は消えて、塚の上には草に蔽はれた石が一つあるだけだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]この石を持ちあげにやならんて!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう考へた祖父は、四方からその石のまはりを掘りはじめた。それがまた、恐ろしく大きな石だ! しかし、うんと足を地面に突つ張つてそれを塚から押しこかした。と、その石はごろごろつと音を立てて谷底へ落ちて行つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]そこがお主の行くところだよ! さあ、これで仕事が楽になつたわい。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
ここで祖父は手を休めて、嗅煙草入を取り出すと、拳の上へ煙草をばら撒いて、今しも鼻へ持つてゆかうとした時だつた、突然、彼の頭上に当つて、※[#始め二重括弧、1−2−54]くしよつ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、あたりの樹木が揺れ動いたくらゐ、ひどい嚔みをした奴がある。そして祖父の顔いつぱいに、鼻汁がひつかけられた。※[#始め二重括弧、1−2−54]くしやめが出かかつたら、せめて、わきでも向きやがれ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言つて祖父は眼を拭つた。あたりを見まはしたが、誰もゐない! ※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、悪魔の奴あ煙草が嫌ひぢやと見える!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は嗅煙草入を懐ろへしまつて、鋤を手に執りながら言葉をつづけた。※[#始め二重括弧、1−2−54]馬鹿な奴ぢやて、こんな良い煙草は、彼奴の親爺も祖父《ぢぢい》も嗅いだことはなかつたらうに!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そこで、また、彼は掘りにかかつた――土はやはらかで、鋤が楽にとほると、何かカチッと音がした。土をのけて見ると、そこに壺が一つあるのだ。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、祖父は壺のしたへ鋤を突つこみながら叫んだ。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、鳥の頭が嘴で壺をほつつきながら、ピイピイ声で口真似をした。
祖父は脇へ飛びさがるなり、鋤を取り落してしまつた。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、木の頂上《てつぺん》から羊の頭が嘶《な》いた。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、木のうしろから熊が鼻づらを突き出して吼えた。
祖父はぞつとした。
「ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!」さう、彼はひとりごとをいつた。
「ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!」と、鳥の頭がピイピイ声で口真似をした。
「物を言ふのも怖ろしいわい!」と、羊の頭が嘶《な》いた。
「物を言ふのも怖ろしいわい!」と、熊が吼えた。
「ふうむ……」さう言つてから、祖父は自分でびつくりした。
「ふうむ!」と、嘴が鳴いた。
「ふうむ!」と、羊が嘶いた。
「ふうむ!」と、熊が吼えた。
祖父は胆をつぶして、うしろを振りかへつた。いやはや、何といふ夜だらう! 星もなければ月もなく、ぐるりはとんでもない難所だ。足もとは底もしれない懸崖で、頭上には山がさし迫つてゐて、今にも彼の上へ崩れ落ちて来さうに思はれる! そして祖父には、その山の蔭からへんな醜い面《つら》がめくばせをしてゐるのが見える。おやおや、鼻がまるで鍛冶屋の※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》そつくりで、鼻の孔へは手桶に一ぱいづつ水を注ぎ込むことが出来るくらゐ! 唇と来たら、まつたくの話が、二本の丸太だ! 真赤な眼は仰むけに飛び出し、そのうへ、ベロリと舌まで出して、そいつがおどかしてゐくさるのだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]勝手にしやがれ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、祖父は壺から手をひいて呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]お主の宝はお主にやるわい! 何といふ穢ならしい面《つら》ぢや!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そして、すんでのことに一目散に逃げ出さうとしたが、あたりを見まはすと、以前どほり、何事もないので、また足を停めた。※[#始め二重括弧、1−2−54]これあ悪魔が嚇かしくさるだけぢやわい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
で、またもや壺を掘りおこしにかかつたが、いけない、とても重くて駄目だ! どうしたものだらう! 今更手をひくことは出来ない! そこで、全身の力を籠めて、両手でその壺を掴んだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]そら、よいしよ、よいしよ! もう一つだ、もう一つだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、やつとのことで引きずり出した。※[#始め二重括弧、1−2−54]ふーつ! 先づ一服やらかさう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
嗅煙草入を取り出した。だが、先づ煙草を振り撒くに先きだつて、誰かをりはせぬかと、よくよくあたりを見まはしたものだ。どうやら、誰もゐなささうだ。ところが、おつ魂消たことには、不意に木の切株が喘ぎながら、むくむくとむくれあがつて来ると、耳があらはれ、真赤な眼がかつと見開かれ、鼻孔がふくらみ、鼻柱に皺がよつて、今にもくしやみをしさうになつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、煙草を嗅ぐのは止めておかう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は嗅煙草入をしまひ込みながら呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]また、悪魔の野郎に唾をひつかけられにやならんから。※[#終わり二重括弧、1−2−55]そこで彼は手ばやく壺を手に取ると、息のつづくかぎり、一目散に駈け出したが、どうやら後ろから、何者かが木の枝で彼の足を擲つやうな気配がする……。※[#始め二重括弧、1−2−54]はあ! はあ! はあ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と声を出すだけで、祖父はただもう、無我夢中に駈けた。そして祭司の家の野菜畑まで駈けつけて、やつと息を入れたものだ。
※[#始め二重括弧、1−2−54]祖父さんはいつたい何処へ行つてるんだらう?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、もう三時間ばかりも待ちくたびれた私たちは、怪訝に思つた。もうとつくに、家からは、母が温い水団を壺に入れて持つて来てゐた。いつまで待つても祖父は帰つて来ない。で、私たちはまた、寂しく夜食をすました。夜食がすむと、母は壺を洗つて、さてその洗ひ水を何処へ棄てたものかとためらつた。何しろ辺りは、処きらはず畝になつてゐたものだから。すると、母のゐる方へ向つて桶が一つ、よちよち歩いて来るではないか。尤も空はかなり薄暗かつた。おほかた、誰か若い衆が巫山戯けて、うしろに隠れて桶を押して来るのだらう。※[#始め二重括弧、1−2−54]ちやうどいい幸ひだ、この桶へ洗ひ水をぶちまけてやらう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]母はさう呟やくと、熱い洗ひ水をザンブとぶ
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