認ためにかかつた。カテリーナは寝棚《レジャンカ》に腰かけて、片足で揺籃をゆすりはじめた。ダニーロは坐つたまま、左の眼で運筆を見ながら、右の眼では窓の外に注意を払つてゐた。窓の外には、遠くの山々やドニェープルが、月光を受けて輝やいてをり、ドニェープルの彼方には森が青ずみ、上には晴れ渡つた夜空が仄かに見えてゐた。だが、ダニーロは、遥かなる空や青ずんだ森を嘆賞してゐるのではなかつた。彼は、突き出た岬に黒く浮かんだ古い城砦を眺めてゐたのである。彼の眼にはその城砦の狭い小窓からパッと灯りが映したやうに思はれた。だが、あたりはひつそりして何の変りもない。多分それは彼の気のせゐだつたのだらう。ただ下の方からドニェープルの騒音がぼんやり聞えるのと、束の間づつ喚び醒まされる波の音が次ぎ次ぎに三方から谺《こだま》して来るばかりである。ドニェープルは何ら狂奔することなく、老人のやうにくどくどと呟やいてゐるが、彼には見るもの聞くもの悉くが気に染まぬらしい。今や彼の周囲はすべてが変つてしまつた。ドニェープルはひそかに、沿岸の山や森や草原に怨恨をいだき、彼等に対する不平を黒海にむかつて訴へてゐるのである。
 と、洋々たるドニェープルの河面に、黒点のやうに一艘の小舟が浮かび出た。同時に、城砦で、またもや何かピカリと光つたやうだ。ダニーロはそつと口笛を鳴らした。するとその口笛に応じて忠実な小者が駈けつけた。
「ステツィコ、急いで、研ぎたての長劔《サーベル》と騎銃《ムシュケート》を持つて俺の後からついて来い!」
「お出かけ?」とカテリーナが訊ねた。
「ちよつと行つて来るよ、女房。あちこち一と通りみまはつて来にやならん、何処にも異状がないかどうか。」
「でも、あたしひとり残るのは怖ろしうございますわ。何だか眠気が催してなりませんけれど、また同じやうな夢を見たらどういたしませう? あたし、あれが夢だつたのか、現つだつたのか、それさへ疑はれてならないのですもの。」
「婆やがお前といつしよにゐるぢやないか、それに玄関や庭には郎党《わかもの》たちが寝てをるし!」
「婆やはもう寝《やす》んでしまひました。それに郎党《わかもの》たちも、なんだか頼りにはなりませんわ。ねえあなた、あたしを部屋の中へ閉ぢこめて、錠を下して鍵をちやんと持つてお出かけ下さいましな。さうすれば、幾らか怖くございませんから。そして郎党《わかもの》たちを戸口の前に寝《やす》ませておいて下さいまし。」
「どうなりと、好きなやうにするさ!」さう言ひながらダニーロは、騎銃の埃りを拭いて火皿へ火薬を注ぎ込んだ。
 忠実なステツィコは、早くも哥薩克の武装に身を固めて立つてゐた。ダニーロは毛皮の帽子をかぶると、窓を閉ぢて、扉に閂を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、錠を下しておいて、郎党どもの寐てゐる間を通つて、そつと邸を抜け出すなり、山の中へと忍び込んだ。
 空もおほかた晴れ渡つた。爽々しい夜風がそよそよとドニェープルの方から吹いて来る。遠くで鴎の声さへ聞えなかつたなら、万象《ものみな》が唖になつたのかとも思はれたであらう。ところが、ふと何かがさごそいふ物音が聞える……。ブルリバーシュは忠実な下僕といつしよに、そこに設けられた鹿砦を翳してゐる荊棘のしげみへそつと身を潜めた。誰か、赤いジュパーンを著た男が、腰には長劔を釣り、拳銃を二挺もつて山を降りて行く。
「親爺だな!」と、しげみの蔭からじつとそれを眺めながらダニーロが呟やいた。「今ごろ何の用で、何処へ行くのだらう? ステツィコ、油断なく、あの親爺の行く先を、よくよく二つの眼で見とどけろよ。」
 赤いジュパーンの男は河岸の端れまで行くと、突きでた岬の方へ曲つた。
「あ! あちらだ!」と、ダニーロが言つた。「どうだ、ステツィコ、てつきりあれは、洞窟《あな》の魔法使《コルドゥーン》のところへ忍んで行くやうだなあ?」
「はい、屹度さうです。ほかへ行くのではありませんよ、ダニーロの旦那! でなければ、あんな方角へ曲る筈がありません。だが、城砦《とりで》の辺で見えなくなりましたよ。」
「待て待て、先づここを出よう。そして後をつけて行くんだ。これには何か、いはくがあるぞ。見ろカテリーナ、俺が言つたらうが、お前のおやぢはまつすぐな人間ぢやないつて。彼のすることなすことが、正教徒とはうらはらだものなあ。」
 やがてダニーロと彼の忠実な下僕とは、突き出た河岸の上に姿を現はした。おや、もうそれも見えなくなつた。城砦《とりで》を囲んで永遠の眠りに沈んだやうな森が、二人を呑んでしまつたのだ。と、上の小窓がほんのりと明るくなつた。その下に佇んだ二人の哥薩克は、どうして攀ぢ登らうかと思案にくれた。門もなく、入口も見えぬ。中庭からは確かに入口がある筈だけれど、そこへ入るにはどうしたものか? 遠くから鎖の鳴る音と、犬の駈ける気配が聞える。
「俺は何をぐづぐづ考へてゐるのだ?」とダニーロが、その窓の前にある高い樫の樹を見あげながら言つた。「これ、お主はここに待つてゐろよ! 俺はこの樫の樹へのぼるのだ、ちやうど、まともにあの窓を覗きこむことが出来さうだから。」
 そこで彼は帯を解き、音のしないやうに長劔を下におろして、枝に手を掛けると、するすると木へ登つて行つた。窓はやはりまだ明るかつた。窓の間近の木の股に腰を据ゑ、片手で幹につかまつたまま、そつと覗くと、部屋の内には別に灯火《ともしび》があるわけではないのに、それでゐて明るい。壁には奇怪な符号が描いてあり、甲冑が懸けてある。それはどれもこれも、基督教徒や愛すべき瑞典人といふに及ばず、土耳古人もクリミヤ人も、波蘭人さへ用ゐない、まつたく異様な品である。天井の下を前後に蝙蝠がひらひらと飛翔して、その影が壁や扉や床にゆらゆらと落ちる。ふと、扉が音もなく開いた。誰か赤いジュパーンを纒つた人間が入つて来て、つかつかと白い卓布を掛けた卓子に近づいた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]やつぱり親爺だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]ダニーロは少し首をすくめて、ぴつたりと幹に躯《からだ》をすり寄せた。
 しかし舅には、窓の外から人が覗いてゐようなどと心を配る余裕はなかつた。彼は陰気な、不機嫌さうな顔をして、いきなりその卓子から卓布を剥ぎ取つた――と、急に、音もなく部屋ぢゆうに透明な空いろの光りが漲《みなぎ》りわたつた。そして蒼ざめた前の金いろの光りはそれと融《と》けあはずに、ゆらゆらと、さながら青い海底へ沈むようにたゆたひながら、あたかも大理石の波紋のやうな層を形づくつた。そこで彼は卓子の上に一つの壺を置いて、その中へ何か、草のやうなものを投げ込んだ。
 ダニーロはじつとそれを見まもつたが、気がつくと、その男はもう、赤いジュパーンを著てゐるのではなく、そのかはりに土耳古人が穿いてゐるやうなだぶだぶの寛袴《シャロワールイ》を穿き、帯には拳銃を吊り、頭には一種異様な、一面に露西亜文字とも波蘭文字ともつかぬ文字で書き埋めた帽子を冠つてゐた。じつと顔を見つめてゐると、その顔の容子が変りだした。鼻がによきによきと伸びて口の上へ垂れ下り、口は見る見る耳の根もとまで裂け、牙が一本にゆつと露はれて一方へ曲つた。見れば、そこには、大尉の家の婚礼に姿を現はした、あの同じ魔法使《コルドゥーン》が立つてゐるのだつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]カテリーナ、お前の夢は正夢だつたぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、ダニーロ・ブルリバーシュは心に呟やいた。
 魔法使《コルドゥーン》が卓子のぐるりを歩きだすと、壁の上の符号がめまぐるしく変りはじめ、蝙蝠は上下左右に、一層はげしく翔び交はした。空色の光りはだんだん淡くなり、やがて消え失せてしまつたやうだ。すると部屋は再び微妙な薔薇色の光りに照らされた。微かな物音と共に不思議な光りが隅々まで漲つたと見る間に、突然その光りは消えて真暗になつた。ただ聞えるのは、静かな黄昏どきに、鏡のやうな水面を旋囘しながら、銀いろの柳の枝を水ぎはへ吹きなびかせて、サーッと吹き過ぎる夕風の音に似た騒音であつた。そしてダニーロには、その部屋の中で月が照り、星が運行して、青黒い空がほのかに明滅し、冷たい夜気が顔へ吹きつけて来るやうにさへ思はれた。それに次いでダニーロの眼には(茲で彼は、夢を見てゐるのではないかと、そつと自分の口髭に触つてみた)もはやその部屋の中が、天《そら》ではなくて、今度は我が家の寝室になつて見えだした。壁には彼の秘蔵の、韃靼や土耳古の長劔が懸り、壁沿ひには棚があり、棚には日常の食器や什器が載つてをり、卓子の上には麺麭と塩があつて、揺籃も釣られてゐる……ただ龕の中からは聖像のかはりに、見るも怖ろしい顔が覗いてをり、そして寝棚《レジャンカ》には……。だが濃い霧がすべてを蔽つて又もや真暗になつてしまつた。やがて再び不思議な物音につれて部屋ぢゆうが薔薇いろの光りに照らし出されると、又もや魔法使《コルドゥーン》が異様な頭巾をかぶり、身動き一つせずに立つてゐる。物音がだんだん激しくなるにつれて淡い薔薇いろの光りは一層あかるくなり、雲のやうに見える何か白いものが、家のまんなかにゆらゆらと動く――ダニーロにはそれが、雲のやうではなくて、女が立つてゐる姿に見えて来た。だが、その女の姿は何で出来てゐるのだらう、空気からでも出来てゐるのだらうか? 足が地についてゐるでもなく、物にもたれてゐるのでもない。また、その姿をとほして薔薇いろの光が透け、壁面に明滅する符号が見える。ふと、彼女はその透明な頭を動かしたやうだ。と、微かにその蒼白めた空色の眼は輝やきを帯び、髪が波うつて、ちやうど明るい灰色の霧のやうに両の肩へ垂れ、蒼白めた唇は、白く透きとほつた朝の空に仄かに紅い曙光がさしたやうに血の色を帯びて、眉がほんのりと黒く浮き出した……。あつ! それはカテリーナだ! だが、この時、ダニーロは五体を鎖で縛《いまし》められたやうに覚えて、物を言はうとしても、唇が動くだけで声は出なかつた。
 魔法使《コルドゥーン》はじつと微動だにせず、以前《もと》のところに立つてゐる。
「お前は何処にゐたのぢや?」と彼が訊ねると、その前に立つた女は顫へだした。
「ああ! 何のためにわたしを呼び出したのです?」と、小声で呻くやうに彼女は言つた。「わたし、ほんとに幸福《しあはせ》でした。わたしは生まれて十五年の月日をすごした土地《ところ》へ帰つてゐたのです。ああ、何てあすこは好いところでせう! わたしが幼いころ遊んだ、あの草地の青々として香りの高いこと! また、あの野の花も、わたしたちのお家も、畠も、ちつとも変つてゐない、ああ、優しいわたしのお母さんが、どんなにわたしを抱きしめたことでせう! お母さんの眼にはどんなに愛情が溢れてゐたことでせう! お母さんがどんなにわたしを可愛がり、唇や頬に接吻をして、歯の細かい櫛でわたしの亜麻いろの編髪《くみげ》をとかして呉れたことでせう! お父さん!」茲で彼女はじつと蒼白めた眼で魔法使を凝視した。「なぜお父さんはわたしのお母さんを殺したのです?」
 魔法使《コルドゥーン》は威猛高に、指をあげて威嚇した。
「俺がそんな話をしろと頼んだか?」
 すると透明な美女は顫へだした。
「お前のご主人は今どこにをるのぢや?」
「わたしの主人《あるじ》カテリーナは今、眠つてゐます。あたしそれをしほに、そつと抜け出して翔《と》んで来たのです。あたし永いことお母さんに会ひたいと思つてゐましたの。あたしは急に十五歳の少女になつて、小鳥のやうに身軽になりましたの。何のためにあたしを呼び出しなすつたの?」
「昨日わしが話したことは、皆おぼえてをるぢやらう?」と、やつと聞きとれる位の、低い声で魔法使が訊ねた。
「覚えてゐますとも、覚えてゐますとも。けれど、あんな怖ろしいことをすつかり忘れてしまへるものなら、あたし、どんなものだつて吝みはしませんわ。可哀さうなカテリーナ! 彼女《あのひと》は自分の魂が知つてをることの半分も知らない
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