ちの姿を見ると、逸早く、くるりと尻を向けた。またチューブの家の長持の中には夥しい布地や、波蘭服《ジュパーン》や、金モールのついた古風な波蘭婦人服《クントゥーシュ》などがぎつしり詰まつてゐた。死んだ女房が衣裳ずきのおしやれだつたからだ。野菜畠には、罌粟や甘藍や、向日葵のほかに、毎年ふた畑の煙草が播かれた。ソローハはもう早手まはしに、それらが残らず自分の身上と一緒になつた暁には、どういふ風に整理《きりもり》をしようかなどと、内心ほくほくと胸算用をしながら、一倍とチューブ老人にちやほやしたものである。ところが、どんなことで忰のワクーラが、チューブの娘に言ひ寄つて財産全部をわがものにしてしまはないものでもない、さうなつたら、こちらには何ひとつ手出しをさせないにきまつてゐるから、彼女はあらゆる四十女の常套手段に訴へて――チューブと鍛冶屋とに出来るだけ何度も喧嘩をさせたのである。多分かうした彼女の狡獪邪智に長けた点がわざはひして、あちこちで、口さがない老婆連に、とりわけ何か賑やかな寄合などで余計なものでも呑んだりした折に、ソローハはてつきり妖女《ウェーヂマ》だなどと言ふ噂を立てさせたものに違ひない。そればかりか、ギジャコルペンコといふ若者が、彼女のお尻に女の使ふ紡錘《つむ》くらゐの大きさの尻尾のあるのを見ただの、まだつい先々週の木曜日のこと、彼女が黒い猫に化けて道を走つて行つただの、コンドゥラート神父の梵妻《おだいこく》のうちへ豚の姿で飛び込んで雄鶏《とり》の鳴き声をあげておいて、神父の帽子を頭にかぶりざま、もと来た方へ駈け去つただのと……。
偶々さうした噂話で婆さん連が井戸端会議を開いてゐるところへ、牛飼のトゥイミーシュ・コロスチャーウイといふ男が来合はせたことがあつた。彼はすかさずこんな話を持ちだした。なんでも夏のことで、*聖彼得斎節《ペトロフキ》の前だつたが、彼が牛小舎の中で一と眠りしようと思つて、藁を掻き寄せたのを枕にして横になつてゐると、現在その眼にまざまざと、※[#「髟/梏のつくり」、36−11]《もとどり》を振り乱した、肌着ひとつの妖女《ウェーヂマ》が牛の乳を搾りだしたのが見えるのだけれど、彼は身動き一つすることも出来ない――呪術《まじなひ》にかけられてしまつてゐたのだ。そして何か、いやに胸の悪くなるやうな物を口に塗りたくられたので、その後で一日ぢゆう、唾ばかり吐いてゐたといふのだ。だが、どうもかういふ話はどれもこれも信用が置けさうにない。何しろ、妖女《ウェーヂマ》を見ることの出来るのは、ソロチンツイの陪審官より他にはない筈だから。そんなわけで、名うての哥薩克連は誰も彼もさういふ噂話を耳にすると、手を振つた。『牝犬どもめが、つべこべと嘘八百を並べやがつて!』さういふのがいつもきまつて彼等の応酬であつた。
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聖彼得斎節《ペトロフキ》 使徒ペテロ及びパウロの祭礼に先だつ精進期、復活祭後第九週より六月二十九日(旧露暦)までの期間をいふ。
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それはさて、煖炉《ペチカ》から這ひ出して身繕ひをしたソローハは、殊勝な女主人《かみさん》のやうに物をとり片づけたり、在るべき場所へ置きなほしたりし始めたが、家の中におつぽり出されてゐた袋には手も触れなかつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]これはワクーラが持つて来をつたのだから、あれが自分で片附けるがいい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]また一方、くだんの悪魔は、さつき、まだ煙突めがけて飛行しながら、チューブが教父《クーム》と腕をくみあつて、もうかなり家から遠く離れてゐるのを見てとつたので、彼は瞬く暇に煖炉《ペチカ》から舞ひあがつて、二人の先※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りをして、カチカチに凍てた積雪を四方八方へ掻き立て始めた。すると忽ち吹雪が捲き起つて、空中は真白になつた。雪は前後に網を引いたやうに飛びかひ、歩行者の眼といはず、口といはず、耳といはず、容赦なく貼り塞いでしまふほどであつた。そこで悪魔は、かうしておけば、チューブが教父《クーム》といつしよに後へ引つかへして、てつきり鍛冶屋と鉢合せをして、彼をこつぴどい目に合はせるだらう、さうすれば、さすがのワクーラも当分は絵筆をとつて、忌々しい戯画《ざれゑ》など描くことは出来なくなるに違ひない、さう思ひこんで、再びもとの煙突をさして引つかへした。
* * *
事実、チューブは吹雪が捲きおこつて、風が正面《まとも》から吹きつけ始めると、はやくも後悔の色を浮かべて、帽子の鍔をぐつとまぶかに引きさげながら、ぶつぶつと自身や、悪魔や、教父に向つて小言を浴びせかけた。とはいへこの忿懣はうはべだけのものであつた。チューブには吹雪の起つたのが結句うれしかつたのだ。補祭の家まではまだ、二人がそれまでに辿つて来た道のりの八倍もあつた。歩行者たちは後ろへ方向《むき》をかへた。風が項《うなじ》へ吹きつけるばかりで、渦巻く吹雪をとほしては何ひとつ見わけることも出来なかつた。
「待ちなよ、教父《とつ》つあん? どうも見当が違つてるやうだよ。」と、少し後へ遅れてチューブが言つた。「おいらにやあ家が一軒も見えねえ。ちえつ、なんちふ吹雪だ! ちつと脇へそれて道を探してみて呉んなよ、俺らはその間にこつちをさぐつて見るべえからよ。こねえに吹雪の中をうろうろさせられるちふのも、てつきり悪魔の仕業に違えねえだよ! 道が目つかつたら忘れずに呼んで呉んろ。ちえつ、悪魔めが、なんちふ雪塊《ゆき》を吹きつけて、目潰しを喰らはしやあがるこつた!」
だが、道は分らなかつた。脇へそれた教父は、深い長靴ばきの足で前へ行つたり後へ戻つたりしてゐたが、最後にひよつこりと酒場の前へ出た。酒場を見つけてすつかり有頂天になつた彼は何もかも忘れてしまつて、からだにこびりついた雪を払ひ落しながら、往来に残した仲間のことなどは、てんで心にもとめず、表口から中へ入つて行つた。一方、チューブには道が分つたやうに思はれたので、立ちどまつて声を限りに呼び立ててみたが、教父がさつぱり姿を見せないので、自分だけひとりで帰ることにした。少し先きへ進むと、彼の眼には自分の家が見えだした。家のぐるりにも屋根の上にも雪が堆《うづた》かく積つてゐた。彼は寒さに凍えた手をあげて、トントンと戸を叩きながら、娘に向つて戸を開けろといかつく呶鳴つた。
「此処にいつたい何の用があるんだ?」と、そこへ出て来た鍛冶屋が、威猛だかに呶鳴りかへした。
チューブは、鍛冶屋の声を耳にして、少し後へさがつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おやおや、これあおれの家ぢやなかつたわい。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は口の中でつぶやいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]鍛冶屋めがおれの家へ立ち寄る訳はないからな。待てよ、よく見れば鍛冶屋の家でもないわい。いつたい、これあ誰の家だらう? なあるほど! さつぱり見当がつかねえと思つたら、なあんだ! これあ、あの、近ごろ新嫁を貰つたばかりの、跛《びつこ》のレヴチェンコの家ぢやねえか。おれのうちに似た家は奴さんの家より他にやあねえ筈だ。なるほど、さういへば、かう早く家へ帰りついたのが最初《はな》から少し変だと思つたわい。それはさうと、レヴチェンコは今ごろ、補祭の家へ行つとる時分ぢやて、それはちやんとおれが知つてをる。それに、なんだつて鍛冶屋めが?……てへつ、へつ、へつ! 彼奴あ若い新嫁のところへ、こつそり忍んで来てやがるのぢやな。なあるほど! ようし!……もうおれには、すつかり何もかも読めたぞ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「いつたい何奴《どいつ》だ、それに何だつて戸口になんぞうろついてやがるんだ?」と、鍛冶屋は前より一段と荒々しく呶鳴りながら、少し間近く詰めよつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、おれが誰だか名乗らぬことにしよう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、チューブは考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]この忌々しい出来そこなひ野郎に擲られるくらゐがおちぢやから!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そこで彼は作り声をして、「わしだよ、お前さん! お慰みに一つ、こちらの窓下で流しをやらせて貰はうと思つたんでさ。」と答へた。
「その流しと一緒にとつとと悪魔のとこへでも出て失せやがれ!」と、腹立たしげにワクーラが喚いた。「何を手前はいつまでも突つ立つてやがるんだ? 聞えたらうが! とっとと出て失せろつちふに!」
チューブの方でもとうに立ち去るのが賢明だとは考へてゐたが、どうも、この鍛冶屋の指図に否応なしに従ふといふことが業腹でならなかつた。彼はまるで悪魔に小突かれでもしたやうに、何かひとこと逆らつて見ないでは済まされなかつた。
「何だつてお前さん、さうがみがみ言ひなさるだね?」と、彼は前と同じ作り声で言つた。「おらはハア、一つ流させて貰ふべえと思つただけのこんでねえか!」
「ふん! それぢやあ、口で言つただけぢやあ、分らねえつてんだな!」
さういふ言葉に次いで、チューブは肩先きに手酷い打撃を感じた。
「それぢやあ何だね、腕づくでかかつて来なさるだね!」彼は少し後へさがつて、さう言つた。
「出て失せやがれ、とつとと出て失せやがれといふのに!」かう喚きながら、鍛冶屋は又もやチューブをどやしつけた。
「何をしなさるだ!」と、チューブは痛みと怨みと怖気を含んだ声で叫んだ。「お前さん、本気でぶつたね、さつきよりひどくぶつたね!」
「出て失せろ、出て失せろ!」さう呶鳴りながら、鍛冶屋は戸をぴつたりと閉めきつてしまつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]見ろ、何ちふ威張り方だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、往来に一人とり残されたチューブがつぶやいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]こんど傍へでも寄つて見ろ! 飛んでもねえ! 太い野郎めが! 手前を裁判へ突き出すことの出来ねえおいらだとでも思つてやがるのか? いんにや、おれは訴へてやる、直かに警察部長のとこへ告訴してやるぞ。今に思ひ知るがええ! 手前が鍛冶屋だらうと塗職《ぬりや》だらうと、かまふこつちやねえ。それはさうと、背中と肩を見たら、きつと青痣が出来とることだらう。畜生め、恐ろしくひどく打ちやあがつて。だが、この寒空ぢやあ、裘衣《コジューフ》を脱ぐ訳にもゆくまいて。待つてろよ、畜生鍛冶屋め、悪魔が貴様と貴様の鍛冶場をぶちこはしてしまへばええ。今に思ひ知らせてやるぞ! くそつ、忌々しい首くくり野郎めが! だが、ちやうど今、奴あ家にゐないんだな。さうするとソローハが独りでぼんやりしてをる筈ぢやて、ふん!……ここからは道も遠くなし――行つてやるかな! こんな時刻だから誰に見つかる心配もなし、ひよつとすれあ、嬉しい首尾にならねえにも限らんて……。ほんに、あの忌々しいど鍛冶屋め、おつそろしく酷く打ちやあがつて!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
そこでチューブは、背中をさすりさすり、別の方角へと歩きだした。眼の前に自分を待つてゐるソローハとのあひびきの楽しさに、いくらか痛みも忘れて、吹雪の唸りにも負けず往来ぢゆうにピシピシ音をたててゐる酷い凍《い》てをさへ身に感じなかつた。口髭といはず顎鬚といはず、お客の鼻を容赦なくつまみあげて石鹸を塗りたくるどんな理髪師よりも素早く、吹雪のために真白にされてしまつた彼の顔には、ともすれば、くすぐつたいやうな表情が浮かんだ。だが、卍巴と降りしきる吹雪が視界を遮ぎつてしまつたため、なほも長い間、ときどき立ちどまつては背中を撫で撫で、『忌々しい鍛冶屋めが、こつぴどく打ちやあがつて!』と、ブツブツ呟やきながら道を辿るチューブの姿は、もはや見ることができなかつた。
* * *
さて、あの長い尻尾と山羊髯をもつたくだんの敏捷な洒落者が、いつたん煙突から飛び出して行つて、再び煙突へ戻つて来た時、彼が盗ん
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