接吻して、自分の胸に手を当ててホッと吐息をつきながら、もしも彼女がうんと言つて自分の欲望《おもひ》を叶へ、然るべく犒《ねぎ》らつて呉れない暁には、何をしでかすか分つたものぢやない。恐らく水中へ身投げをして、魂だけは焦熱地獄へまつさかさまに落ちて行くだらうなどと、ぬけぬけと切りだしたものだ。ところでソローハはさほど情《つれ》ない女でもなかつたし、第一、悪魔と彼女が共謀《ぐる》になつてゐたことも明らかだ。それに、もともと彼女は、自分の尻を追ひまはす連中をあやなすのが大好きで、さういふ手合を引き入れてゐないことは稀らしかつた。しかし今夜だけはこの村の主だつた連中はみな補祭の家の蜜飯《クチャ》に招ばれてゐるから、どうせ誰ひとり忍んで来るものはあるまいと思つてゐた。ところがまんまと予想がはづれて、悪魔がやつと想ひのたけを打ち明けたばかりのところで、だしぬけに表の戸を叩く音がして、それといつしよに、がつちりした村長の声が聞えたのだ。ソローハは急いで戸をあけに駈けだした。咄嗟に、敏捷な悪魔はそこにあつた袋の中へ潜《もぐ》りこんだ。
村長は帽子についた雪を払ひ落すと、ソローハの手づから火酒《ウォツカ》を一杯のみほして、さて、吹雪になつたので補祭のところへ行くのは見あはせたが、彼女の家の灯りを見ると、急に今夜は一つこちらで暇つぶしをしようと思ひたつて、やつて来たのだと告げた。
村長がかう言ひきるかきらないのに、また戸を叩く音といつしよに補祭の声が戸口で聞えた。
「わしをどつかへ隠《かく》まつて呉れ。」と、村長が小声で言つた。「今ここで補祭と顔を合はせちやあ、ちと具合が悪いから。」
ソローハは、こんな大兵なお客をいつたい何処へ隠したものかと、暫らく思案に迷つたが、最後に一番大きい炭袋を選んで、中の炭を桶へぶちまけた。すると、髭を生やした堂々たる村長が頭に帽子をかぶつたまま、その袋の中へ這ひずりこんだ。
補祭はハアハアいつて、手をこすりこすり入つて来ると、招《よ》んだお客が一人もやつて来ないので、もつけの幸ひだと思つてちよつくら遊びに来たが、吹雪なんぞは屁でもなかつたと言つた。そしていきなり女の傍《そば》へすり寄つて、オホンと咳払ひをしてニヤリと笑つた。それから長い指で女のむつちりした剥きだしの腕にちよいと触つて、狡獪《ずる》さうな、それと同時にひどく得意らしい顔つきをして、「これはいつたい何でしたつけね、美しいソローハさん?」さう言つて、少し後へ飛びのいたものである。
「何だもないぢやありませんか? 腕《かひな》でござんすよ、オーシップ・ニキーフォロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ!」とソローハが答へた。
「ふうむ! 腕かな! ヘッヘッヘッ!」補祭はさう言つて、自分の口切りに心から満足して部屋をひとまはりした。
「ぢやあ、これは何ですかね、わしのだいじなだいじなソローハさん?」同じやうな顔つきで再び女に近よると、ちよいと女のうなじに手を掛けて、さう言つてから、同じやうに後ろへ飛びさがつた。
「御存じの癖に、オーシップ・ニキーフォロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ!」と、ソローハが答へた。「うなじでございますよ、うなじに掛かつてゐるのは頸飾でございます。」
「ふうむ! うなじに頸飾かな! ヘッヘッヘッ!」そして補祭は再び手を揉みながら部屋をひとめぐりした。
「して、これは何ですかな、較《くら》べものもないくらゐ美しいソローハさん?……」ここで、この好色な補祭がその長い指でいつたい何処に触らうとしたのか、それははつきりしないが、ちやうどその時、だしぬけに戸口にノックの音がして、哥薩克のチューブの声が聞えた。
「えつ、南無三、邪魔がはいりをつたわい!」と、補祭はびつくりして叫んだ。「わしの役柄で、こんなところを見つかつて堪るものか?……もしコンドゥラート神父の耳へでも入つたことなら……。」
だが、補祭の恐れはそれではなくて、何より自分の女房にばれはせぬかと懸念したのだ。彼の女房といへば、それでなくてさへ恐ろしい腕力を振つて、たつぷりあつた彼の長髪《かみ》を引きむしつてほんの僅かにしてしまつた女なのだ。「親切なソローハさん! 後生だよ。」と、全身をわなわな震はせながら補祭は訴へるのだつた。「あんたの善根は、ちやうど、ルカ伝にも言つてある、第十三章……十三……叩いてゐますよ、ほんとに叩いてをる! ああ、わしをどこかへ隠《かく》まつて下されい。」
ソローハはもう一つ別の袋の炭を手桶へぶちまけた、と、さして大柄でもない補祭がその中へ這ひ込むなり、チョコナンとその底に坐つたので、まだ上から炭の半俵やそこいらは入れることが出来るくらゐだつた。
「今晩は、ソローハ!」と、家の中へ入りざまチューブが声をかけた。「おほかたお前さんはわしが
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