思い切り飲みましょうか?』
H――氏は煙管の煙にむせ返りながら泪ぐんて頷いた。
『有難う。――だが、ちょっと待って下さい。僕は、これから行って、その指輪を彼奴の顔へ敲きつけてやりたいのです。』
『併し、ロマンティストとして、それはあまり……』
『いやいや、僕は生え抜きのロマンティストですから。』
『ごもっとも、では、そう云うことになさるのもよろしいでしょう。』
H――氏は、私から指輪を受け取ると、「星の花」を詰問に出かけたが、どうしたものか、それっきり翌日迄戻らなかった。
次の日、私がH――氏の部屋を訪れた時、H――氏は机の上で手提金庫を開いて、幾十枚かの手の切れそうな紙幣を数えていたが、私の顔を見ると急いで蓋を閉めた。そして、非常に機嫌のいい声でこう云うのであった。
『――昨日は、どうも飛んだ思い違いだったのですよ。「星の花」に事情を質してみたところが、彼女は僕から先に買って貰った命よりも大切な指環を烏渡した不注意から失してしまって、可哀相に自殺しようとまで思いつめたんだそうです。併し、恰度、そこに君と云うロマンティストが近寄って来たので――彼女は女に似合わず、非常に良くロマンティストを理解しているのです――つまり、君の厭味のない親切を信じて、つい頼る気になったのですね。それで……』
『ロマンティストの友情にかけて――』と私は、おそるおそる切り出した。『私は、ロマンティストの生活を長く暮しすぎたために破産してしまいました。もう今日のお米がありません。夜逃げの旅費をほんの少し貸して下さい。』
『お金※[#疑問符感嘆符、1−8−77]――』H――氏は金庫の蓋に手を置いたまま愁しげに首を振った。『一文もないのですよ。この金庫に入っているのは、みんな贋造紙幣です。いいえ、全く偽せ物に違いないのです。ロマンティストは、金の工面に奔走したり、友情を強要したりすることよりも、自分一人で牢屋に入った方が、ずっとロマンティックだと思いますからね。そうではありませんか。……』
そこで、私は、身体組織に変化を生じない限り、ロマンティストとしてあらゆる努力が空しいことを知った。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年11月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
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