て買物をして序《ついで》に双眼鏡を一つ買いました。そして、その買いたての双眼鏡をもって、私はM百貨店の屋上から初覗きに東京中の景色を眺めまわしてみました。晴れた日の午さがりで、大きな貨物船の沢山浮かんだ碧い品川の海や、数え切れない程の煙突や、とたん屋根や、洗濯物が一っぱいかかっている物干しや、いろんなものが見えました。上野の山の青空に風船が浮かんで、その下に散りかけた桜の花が煤けた古綿のように汚ならしく見えました。それから、その次にレンズを動かしたはずみに、大ぜいの市井《まち》の人々の姿が映りました、その中に、ふと私は非常に綺麗な娘さんの顔を見つけました。純然たる日本の髪を結った少女で、東洋的美しさの典型とも云いたい、仏さまのような優しい清らかな顔でした。私は一眼見てはげしく心を打たれてしまいました。たとえようもない無二無三な恋慕の情がするどく胸をかきむしりました。私は幾度もピントを合せ直しました、併し、あまり焦立ったために、却って最初の正しい焦点をなくして一層うろたえている中に、情ないことにも、彼女の姿はやがて行き交う人々の蔭へかくれてしまいました。そして、どんなに追求しても無駄でした。私はあらゆる努力を払って彼女をもう一度探し出そうと固く決心しました。それで瀬戸内海行も中止してその日以来、縁あるものならば永い間には再び会えぬ筈はないと信じて、M百貨店の屋根で、その日と同じ刻限には必ず見張りに立つことにしたのです。が、考えて見れば、彼女の姿の見えたところが上野の方向に当っていたことだけは確なのだから、これは博覧会の風船の方がずっと有利であると覚って、早速計画を変更して軽気球へ乗りました。けれども一月経っても、二月経っても、私の果敢ない恋が何の報いられるところもなかったことは御存知の通りです。博覧会はいよいよおしまいになります。今更M百貨店の屋上へもどる勇気も失せてしまいました。私の恋としたことがたとえばシベリアの大森林の中へ落下してそのまま落葉の底深く永遠に埋もれてしまった隕石の運命の如くに、よくよく不仕合せなものかも知れません。」
西洋人はすすり泣きに泣いた。
――それは、それは……」とそう云って私もつい悲しくなった。
私はよろめきながら周章てて立ち上って女の子を呼んだ。
――おけいちゃん、おけいちゃん! えくぼウイスキイのお代りじや!」
6
博覧会の閉会の日は、珍しく日本晴のお天気であった。晴れさえすれば、もう真夏の紺青の空が目にしみて輝き渡るのである。
軽気球も千秋楽ではあるし、久し振りで、だんだら染の伊達な姿を景気よく天へ浮かべた。
私と西洋人とは軽気球の上で握手した。
――もうすっかり諦めてはいたのですが、一番最後の日になって、こんなに滅法すばらしく晴れ渡ったのを見ると、私はどうも今日こそはひどく奇蹟的な幸運に恵まれそうな気持を感じました。」
西洋人はサックから双眼鏡を取り出しながら、そう去った。
――若し、本当にそうだったら、私だってどんなにか嬉しいでしょう!」と私は答えた。
西洋人は平常の倍も亢奮して、双眼鏡を覗いた。
ところが! 到頭その奇蹟がはじまったのである。
――おお! いました、いました!」と西洋人は突如叫んだ。「あすこに見える。正しく彼女だ! 髪や着物迄何一つ異いはしない。今度こそ見逃すものか!」
私も遉にギクリとした。
――いましたか※[#疑問符感嘆符、1−8−77] ほんとうですか? 何処にいました?」
ミハエルは感動のあまり、我を忘れて籠から半ば体を乗り出した。私はおどろいて、それを抱き止めた。
――おお、地上の宝よ! 私の生命よ!」ミハエルは叫ぶのである。
――どれどれ! 何処にいるのですか? 私にも見せて下さい。」と私は云った。
ミハエルは漸く私に双眼鏡を手渡しながら早口に説明した。
――すぐ下です。博覧会の真中です。大きな赤い旗と緑色の天幕との間にある象の形をした建物の前です。印袢天を着た男達の中にたった一人まじっている女がそうです。……わかりましたか?」
私は彼の云うが儘に焦点を定めた。すると果して一人の美しい女の顔を発見することが出来た。だが、よくよく見るならば、ああ! 私はそこで危く双眼鏡を取り落とすところであった。
何故と云って――私の見出したところのその美しいミハエルの恋人たるや、何と今しも印袢天を着た会場整理の人足共に依って擔ぎ出された、何処か呉服屋でも出品したらしい飾り付け人形であったではないか!
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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