私は、今日こんな風にうっかりと出かけて来たことを悔みながら窓外の爽かな田園の風光が、愁しい泪の中に消えて行くのを見守っているより仕方もなかった。
港の停車場に着くと、父は車夫を呼んでチェッキで大きな赤革のスートケースを二つも受け取らせた。そのスートケースの一つと共に車に乗って波止場へ向う道々、私は何時の間に父がこんな大きな荷物を持ち出したものかと思い迷った。そしてそれについていた名札をあらためてみたが、一字も書き込まれてはいなかった。
すぐ前を走っている車の上から父は新しい夏帽子の縁に手をかけて時々うしろを振返ってみては、どう云うつもりか、鼈甲縁の眼鏡で私へ笑いかけた。その度に赤色のネクタイがひらひらと飜った。……その度に、ああ、何と云う厭な狡猾な親しみのない顔なのだろう! と私は胸一ぱいに不愉快になりながら、そっぽ向かなければならなかった。
(サクソニヤ号。午前七時出帆――。)と波止場の門の掲示板に書いてあった。父はそのサクソニヤ号へ二つのスートケースと一緒に入って行った。
私は波止場に立って真黒な船腹のさびついた鉄板を見ていた。やがて、船の奥の方から銅羅が響いて、次いで太い煙突が汽笛を鳴らした。
父は甲板から、にこやかに挨拶をした。
「どうも、ありがとう。お丈夫で!」
「――お丈夫で!」と私は甲板を仰ぎ見ながらそう叫んだ。
船は波止場をはなれた。父は新しい麦わら帽子を高く振った。私は自分の汚れた黒いソフトを一生懸命に振った。
私は波止場の石垣に腰かけたまま、風に吹かれて殆ど半日も我を忘れていた。
到頭金釦をつけた空色の制服を着ている税関の役人が私の肩を敲いた。
「どうしたんです? まさか、身投げをするつもりじゃないでしょうね。」
私は急に悲しくなってむせび泣いた。
「おやおや、困りますね、一体どうしたって云うのでしょう。泣いてちゃわかりません。わけをお話しなさい。」
「お父さんが、いなく、なった、のです!……」と私はようやく答えた。そして、それから、父のためにどんな風にしてあざむかれてしまったかを語った。
「お父さんはどんな様子の人です?」と役人はきいた。
「よく思い出せないのです。そう、恰度あなたみたいな人です。髭がなくなってつるつるした顔をしていました。そして、しかもやっぱりそんな大きな眼鏡をかけていました。ああ、ほんとにあなたとそっくりです!」と私は叫んだ。
税関の役人はドギマギとしてその髭のない貧しげな顔を両手で抑えた。
父。髭なし。麦わら帽子。鼈甲縁眼鏡(時として使用す)赤地ネクタイ。その他、※[#「さんずい+肅」、第4水準2−79−21]洒たる青年紳士――。
親切な税関の役人は右のような人相書を作って、サクソニヤ号の次の寄港地へ宛てて照会した。しかし、もとよりそんな人相書は、たとえばその中の赤地のネクタイ一本がもつ手がかりよりも、決して重要な特徴を示していなかったことは事実である。
私はそして、到頭その朝、そんな風にして父から見捨てられてしまった。これから私は全くたった一人ぼっちで、この堪え難い人生を渡って行かなければならないのだ……。
それにしても、自分の父の顔位は、よしやその髭がなくなったとしても、決して見忘れない程度に、よく見憶えて置くべきことである。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」
1929(昭和4)年7月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年7月28日公開
2007年12月20日修正
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