まれてありました。僕はこの全く思い設けぬ掘出し物にホクホクと喜んでしまいました。可笑しなもので、すっかり大金持になった気持の僕はそこで、急に日本へ帰りたくなり出したのです。そうして、一端そう思い立つともう矢も楯もたまらなくなって、恰度その日から一週間目に出る便船で、出発《た》つことに決めてしまったものです。
 ところが、その愈々たつと云う、三日前の晩でした。冷たい雨が少し強加減に降る晩でした。僕は朝っから手まわりの荷物の始末などしてずうっと晩になっても宿にいました。夜、僕が何処へも出ずに宿におち着いているなんて、ほんとうにめったにない珍しい事でした。ただ一人、部屋に籠って明々と燃えているファイヤープレイスの前に揺椅子をひき据えていました。何故ならば、もう世の中には冬がやって来ていて、大陸の夜気は可成り底冷えがしていましたから。そして窓外のザアザアと云うはげしい――と云っても決してそれは不愉快でない程度におけるはげしさの雨の音をじっと聞き乍ら、久方振りで眺められる懐しい東京の風景……家こそもう失くなっていたが僕の生まれた土地である美しい浜町河岸の夕まぐれや……こんな雨の晩にはさだめし絵の様に綺麗に見えたであろう、人形町通りや……または白い水鳥がいくつも飛んでいる霧のかかった大川の眺めや……それから或は幼ななじみのいろんな年寄りや友達や……それらのさまざまな楽しい想い出に浸って、可成り上機嫌になっていたのですが、その楽しい瞑想をしばしば不意に破る者がありました。それは僕の室から程近い玄関口の方に当って時折、するどく、けれども何となく物悲しい余韻をひびかせて、犬が吠え立てるのであって、僕はあまり雨降りの夜に犬の吠声を聞いた事がなかったもので(むろんそれは人通りの少い故にもよるのだろうが)――ちょっと訝しく思ったのでした。殊にその夜の雨足は今も云った様にかなりはげしかったのですからね。けれどもまたそれだけに一層、碌に泊客もないらしいこの宿屋の一室には物寂しい、しみじみとした静閑《しずけ》さがみちていました……と、僕はふと耳を澄ましました。僕は気のせいか、或かすかな物音を――窓ガラスを誰かが極めて静かに叩いている様な物音を聞いた様に思ったのです。僕は立って窓帷《カーテン》を開けてみました。けれども勿論、そんな真暗な大雨の夜に窓から訪れて来る様な酔狂なお客様の影なぞは見とめるべ
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