で土地の人気者たちの大喧嘩があって、どんなに黒山の人だかりがしていたにしろ、足をとめたりなぞしないのだが、その晩に限ってどうしたわけか、その大袈裟な軒燈につられたものか、つい電車道を横切って、そっちの方へ近寄ってみたのであった。その西洋料理店は名前こそ堂々としていたが、もとよりペンキ臭い安普請のけちな店構えであった。植木会社の貸物らしい大きな糸杉の植木を飾った入口の仏蘭西扉の前に十人位の者が立って中を覗き込んでいた。仏蘭西扉の傍には、何のつもりか舶来の酒の壜や前菜料理の材料なぞと一緒に大きくふくらましたゴム風船の沢山浮んでいる見世飾《ショウウインド》があって、それらの透き間から垣間見ている者もいた。
 ――帰れ! やい、けえれねえのか、てめえ宿なしじゃあるめえな!」
 先ずだみた男の声でそう怒鳴るのが井深君の耳に入った。井深君も人々の後から内部の出来事をうかがった。井深君は人並より丈が高かったので、溝板か何かを足場にして少し背延びをするとすっかり見ることが出来た。井深君は入口に近い卓子《テーブル》の一つに顔を伏せている小ざっぱりした空色の水兵服を着て赤い飾り玉のついた仏蘭西様の水兵帽をかぶった十七八の少女と、その傍に立って二人の女給らしい、ひどくまるまると肥って赤ら顔の女と、それとまるであべこべに痩せこけて蒼い女と、それに主人とも見える背広服を着て頭の頂をてかてかに禿げ上らせた男とを見た。
 ――あんた、泣いたって、泣き真似なんかいくらしたって、誰あれも可哀相だなんて思やしなくってよ。早くお帰んなさいよ。」と肥った女が云った。
 なる程、安物の置電燈《スタンド》のうす紫の笠《シェイド》の下で、水兵帽子の赤い玉のかすかに揺れているのがわかった。
 ――交番へそう云うじゃなし、帰ってもいいなんて、有難いと思わないのかね。いけ洒々と泣いて見せたりしやがったって、そんな手なんかに乗って堪るかってんだ、ほんとうに。足元の明るいうちに、さっさと帰れ、帰れ!」と今度は痩せた女が、そう罵ると、見物の方を向いて哂って見せた。
 ――足許はとっくに暗えや、日が暮れてるぞ! 帰る家がなかったら俺ん家へ来い。ただで泊めてやらあな。」と見物の一人が怒鳴った。それで、見物人たちは、一斉に笑い出した。
 ――全くしぶとい小娘だ。服装《なり》こそちゃんといい服装をしているんだが、不良少女なんて図々しいもんだな。」と主人らしいのが感心したように云った。
 すると、水兵服の娘は突然顔を上げて井深君を見たのである。恰も井深君が其処に見物人たちの後から覗き込んでいるのをはっきり知っていたかのように。――(けれども、部屋の中は明るくて戸外は暗いのだから、井深君の方では見たと思っても先方では見えなかったかも知れない。まして井深君が其場に居合せたことに気の付こう道理なぞはないのだが、何しろあまり突然に、ぴったり二人の眼が出会ったのだ)青ざめて、眼が先の広がった睫毛まで泪に輝いて、可愛らしい輪廓をもった顔である。井深君は、そこで危く声を上げようとする程驚いた。突然見つめられたためばかりではない。井深君は、実に其処に自分の恋渡っている少女と他ならぬ少女を見出したのである。――いやいや、こんな風に不器用な云い廻しは決して許されない。第一それではこの話は話にならなくなってしまう……。上品な額や、花車《きゃしゃ》な頤《おとがい》や、さては振分け髪を一束づつ載せた細りとした肩のあたりと云い、瓜二つどころか全く豆と豆との如くと云っても足りない位である。こんなにもよく似た顔が二つ以上も、この世に存在して差閊えないものであろうか! と井深君は思った。
 井深君は知らず識らず人々の一番前に出てしまった。そして、どうして井深君にそんな敢為な志が湧き起こったのであろうか、それはただその少女があまりにも自分の恋人にそっくりであったから――と云う理由だけに過ぎない。井深君はその頭の禿げ抜けた主人らしい男に事の顛末を訊ねたのである。頭の禿げた男は井深君の中山帽子やその他の身なりに対して敬意を表しながら可なり丁寧に説明して聞かせた。その少女は夕食のために定食を食べたのだが、食べてしまうと、金入れを紛失《なく》くしたと[#「紛失《なく》くしたと」はママ]云って代を払わなかったと云うのである。
 ――二円? それ位の金で、こんな年のいかないお嬢さんにこんな恥をかかせるものではない。僕が払いましょう。」井深君は話が存外やさしい事柄であったのに安心しながら云った。
 ――あなたさま、お知り合いでいらっしゃいますか?」
 ――そう、まあ知り合いですね。……江戸川の立派なお邸のお嬢さんだよ、お父さんは男爵でね。電話をかけましょう。――君は不良少女なぞと云ったことを、勿論みんなの前でお詫びする[#「お詫びする」は底本
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