くらしているばかりで何一つ為事《しごと》らしいものも持ってはいなかったが、それでも立派な法学士で――そんな肩書なぞは全くどうでもいいのだが――兎に角三十歳近い大人であった。併し、時々、少年になろうと云う意識は動いた。それと云うのが、井深君は恰度恋愛をしていた。それも――井深君は殊の外内気な性向《たち》で、かつ多分それ故に謹直で、ついぞ遊びもしないし、酒も飲まないし、女の噂さえも滅多に口にすることのない人間なのだが、どう云う事のはずみか井深君が屡々遊びに行く友だちの妹で、やっと十八位にしかならない少女に生まれてない恋慕の情を覚えそめていたのである。恋慕の情を覚えそめていた――と云うだけの話だから、その少女の方ではどんな風に感じていたのかも判らない。甚だもの果無《はかな》い恋愛である。井深君自身もそう思った。が、井深君の気質にしてみれば、そして又別の恋も知らずに三十歳もの年を重ねてしまった身にして見れば、それ程のもの果無い恋の方がいっそ心に叶っていたのではあるまいか……。
井深君は、自分のひきずっているステッキが甃石にカラカラ、カラカラと鳴る音ばかりではもの足りない気がした。そこで、あらためて前後左右を見返して、人影のないのを確めると、さて――(何しろ春の黄昏で、月がさしていたことだし……)と心の裡に言いわけをして、その少女が好んで唄っている「汝が像」と云うハイネの詩にシューバアトが曲をつけた歌を口笛で吹いてみた。
〔Ich stand in dunkeln Tra:ummen und〕
starrt, ihr Bildness an,
Und das gelibte Antlitz
hoimlich zu leben begann.
……………………………………
…………………………
ところが、一章唄い切らない中に井深君はやめた。
行くての向う側の家並に切れ目が見えて、つまり横通りがあって、其処の角の赤と緑との明るい灯がついている下に何やら人々がごたごたとたかっているのである。色のついた灯は Owl Grill & Restaurant と大きく切り抜いた西洋料理店の軒燈であった。おや――喧嘩かな。アウル・グリル・エンド・レストラントか? 上海にいた時分には、あすこへよく飯を食いに行ったものだったが……。と、井深君は、平常ならば銀座の真中
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