人生のすべてを知り尽したい慾望にかられた。
 ドリアンは公園の中を漫《そぞ》ろ歩くにしても、ピカデリイを散歩するにしても、行き交う人々の顔をいちいち、彼等が一体どんな生活を営んでいるものかと怪しみながら、狂いじみた好奇心でながめた。それらの或る人々は彼を惹きつけたし、また或る者は彼を恐怖せしめた。空気は微妙なる毒に漲っているように感じられた。彼は何かしら異状な出来事を待ち憧れた。
 そして、或る夕べの事、ドリアンはふと思い立って醜悪な犯罪人と華麗な罪悪とにみち溢れた灰色の怪物倫敦の下層区を探険するべく出かけた。危険はドリアンにとってはむしろ快楽であった。ドリアンは当もなく東の方向を択んで進む中に、忽ち陰気な薄暗い街の中へ迷い込んで、やがて小さな立ちくされた芝居小屋の前に出た。そしてゆらめく瓦斯の光とベカベカな狂言ビラとにドリアンは足を止めた。そこの入口のところには奇妙な胴衣を着た卑しげな猶太《ユダヤ》人が粗悪な葉巻を燻らして立っていたが、ドリアンを見ると、『閣下どうぞお入り下さいませ。』と云って、うやうやしくドリアンの帽子をとって中へ招じ入れたのである。
 出し物は、『ロメオとジュリエット』である。
 南京豆ばかりを食い散らしている下等な見物人と、おそろしいオーケストラとは、遉《さすが》のドリアンも堪え難かった。が、さて幕が開いてうら若いジュリエットが姿を舞台に現わすに及んでドリアンは思わず歓声を洩した。

 5

 やっと十七八らしいその可憐な花の如き女優は、ドリアン・グレイがこれ迄に見た如何なるものに優って愛らしかった。暗褐色の髪を振り分けに編んだ小さなギリシャ型の頭や、情熱の泉のような菫色をした瞳、それに薔薇の葩《はなびら》の如き唇、ドリアンは泪のために娘の顔が見分け難くなる程感動した。そしてまたその声は、やわらかな笛の音のように、或るいは夜明け前の鴬の唄声のように、やさしく澄んでいるのだった。
 ドリアンは、生れてはじめて身も世もない恋慕の思いに胸をかきみだされた。彼女の名前をシビル・ヴェンと云った。
 ドリアンはシビル・ヴェンを忘れかねて、それから毎晩、その怪しげな芝居小屋へ通った。
 三日目の晩にドリアンは、恰度ロザリンドに扮した彼女へ花を投げた。そしてその幕が済んだ後で、彼は猶太人に導かれて楽屋へ通った。
 シビル・ヴェンは未だ初々しい内気な娘であった。彼女はドリアンが彼女の芸を称讃するのをばただ不思議そうに眼を瞠って聞いていた。彼女のその様子には自分の力量を意識しているようなところが少しも見えなかった。彼女はおずおずとドリアンに云った。
『あなたは王子さまのようでいらっしゃいますのね。これからプリンス・チャーミングと呼ばせて頂きますわ。』
 彼女もまたそんな職業や生活ではあったが、人生については全く無智な子供に過ぎなかった。

 6

 シビルはメルボルーンへ向けて航海しようとしている弟のジェームスと共に明るい日ざしの中をユーストン通りの方へ歩いていた。
『その人は、プリンス・チャーミングって云うの。ねえ、随分すてきな名前じゃなくって? お前だって一目その人を見たなら屹度その人が世界中で一番立派な人だと思えるに違いないわよ。誰でも、みんなその人を好きだし、それにあたし……あたしその人を愛しているの。ねえ、ジム、恋をしながらジュリエットの役をするなんて、なんて幸せなことなんだろう。』
『男には、とりわけ紳士と云う奴には気をつけなくちゃいけないよ。』とジェームスは云った。
『ジム、もうあきあきしたわ、そんな事。おっつけお前が誰かと恋に落ちた時に、はじめて解ることだわ。』その時だった。彼女は思いがけもなく二人の貴婦人と共に馬車を駆って過ぎるドリアン・グレイの金髪と笑いかけた唇とを見つけた。
『ああ、あすこにプリンス・チャーミングが!』
 と彼女はとび上った。
『何処に?』とジムはびっくりした。『どれ、どの人だ。見覚えて置かなければならない。』併し、馬車は早くも雑踏の中に疾り去った。『残念なことをした。――僕はそいつが姉さんに悪いことでもしようものなら必ず生かしちゃ置かないつもりなのだから。僕はどんなにしてもそいつを探し出して犬のように刺し殺してやるぞ!』ジムはそう云いながら幾度も短剣をつき刺すような恰好をしてみせた。

 7

 ヘンリイ卿とハルワアドは、ドリアン・グレイからシビル・ヴェンとの恋を打ち明けられて少からずおどろいた。
 それで二人は一夜、ドリアンに案内されてその裏町の見窶しい劇場へ見物に出かけた。その晩はどうしたものか満員で、暑さのために上衣も胴衣も脱いだ見物人たちが劇場を縦横に呼び交し合っていた。また酒場《バア》の方からはさかんにコルクを抜く音が聞こえて来た。
『女神もいいが、これはまあ、とんだ所では
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