の奥なる、曾て触れられたこともなかった秘密の琴線に鳴りひびいたのである。
『――誘惑に打ち勝つ唯一の方法は、それに従うことだ。何故と云って、禁制のものを願う慾望は徒《いたずら》に人間の魂を虐げるばかりだから。……魂を癒すものは感覚に他ならないし、感覚を癒すものは魂に他ならない。これは人生の大きな秘密だ。……ああ、君のおどろくべき美しさ! 君の燦しい青春こそは、日光の如く、春の日の如く、月の如く、全世界を魅惑することが出来るであろう。……併し、青春は再び帰らない。やがて、我々の肉体は衰え、感覚は枯れる。そして過ぎた日に素晴しい誘惑に従う勇気を持たなかったことを後悔しはじめるであろう。ああ、青春! 青春! 現世には青春以外の何ものもない。』ヘンリイ卿の言葉は、まことに狡猾極まる魔法にも等しかった。如何に明快に活々と、しかも残酷にドリアンの童心は鞭打たれたであろうか。ドリアンは俄かに人生が彼に向って火の如く燃え上がるのを感じた。
3
『さあ、すっかり出来上った。』とベエシル・ハルワアドは絵筆を措いて云った。
『ドリアン、今日は珍しくじっとしていてくれたものだね。有難う。』
画家は、ドリアンとヘンリイ卿との間にどんな会話が取り交されたものか、少しも気がつかなかった程、為事《しごと》に心を奪われていたのである。
『それは僕のお蔭さ。ねえ、グレイ君。』とヘンリイ卿が云った。
ドリアンは黙って絵の前に立った。見事に刻まれた唇、青空の如く深く晴れやかな瞳、豊かな金色の捲毛、ドリアンは自分の美しさに初めて堪能した。が併し、その絵姿が美しければ美しい程、云いようのない愁《かな》しみの影が心の底に頭を擡げて来るのをドリアンは気がついた。
『僕は永遠に亡びることのない美が妬ましい。僕は僕の肖像画が妬ましい。何故それは、僕が失わなければならないものを何時迄も保っていることが出来るのであろうか。若しも、その絵が変って、そして僕自身は永久に今の儘でいることを許されるのだったならば! その絵はやがて、僕を嘲うに違いない――何と云う恐しいことだろう。』
ドリアン・グレイは泪を流して、恰も祈りでもするかのように椅子の中に身を沈めた。
『これはみんな君のした事だ。』と画家は痛々しげに云った。
へンリイ卿は肩をゆすった。
『これが本当のドリアン・グレイなんだ。』
4
ドリアンは、今や
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