の心にそんな冷めたい疑いをさしはさめる程の余裕なぞ与えなかったのだもの。私はすっかり同情してしまって、その子に一円のお金を貸してやった。するとその子は非常に喜んでね。そうしてそのお礼にと云って、持っていた伊太利《イタリー》革の手提の中から一本のネクタイピンを――とり出すと、私がどんなに断っても、自分の手で私のネクタイにさしてくれると云い張って聞かないのだ。私はそれで為方なく、(何と云う無邪気な面白い子なのだろう……)と笑い乍ら、どうせそんな年のいかない女の子が持っているのだから、二十銭位のおもちゃかも知れないそのピンをさして貰うために、腰を屈めて首を差し出した。ところが、どうだろう。女の子はピンをさし終えるが早いか、突然いやに冷めたい手で私の両耳にぶら下がると、私の唇に接吻して、どんどん暗やみの方へ逃げて行ってしまったではないか。私は呆気に取られて茫然としていた。……ところが、それから暫くして気が付いたのだが、私はその女の子のためにふところの紙入を掏られていた。つまり、一本のネクタイピンと素早いキスの代価をうまうまと支払わせられたわけになるのだね。……が、それはそう企んだ先方のとんだ見当違いでね。と云うのは、お恥しい話だが、私はその頃或る事情で甚だお金に困っていた。それで紙入にお腹を空かせて置くのも私の性分でへんにみっともない気がしたので、新聞紙をお紙幣の大きさに切ってどっさり入れて置いたのだよ。本物のお金と来たら五円も入っていなかったろう。……いいかね。そして、それに引きかえて、二十銭位だろうと思ったネクタイピンは後でしらべてみると、どうして立派な物で大丈夫五十円の値打はあると云う品物だった。……尤もその女の子だって、何れもともとは何処からか不当な取引で手に入れたのだろうから、それ程高価な品物とは気が付いていなかったかも知れないのだが。……それにしても、私はどうも気の毒でならないのだ。私にはどうしてもあの女の子がそう大外れた悪者とは思えないのだがね。あんな無邪気らしい――と云っても何分暗かったので顔は到頭はっきり見る事が出来なかったのだけれども。ひどく冷めたい手をしていた事だけは覚えている。一体手の冷めたい人間と云うものは、西洋の小説なぞにもよく書いてあることだが、たいてい内気でおとなしいものだ。屹度付近の物蔭にあの子を操っている悪い奴が隠れていたのに違いないと思う。……話と云うのはそれだけだよ。で、つまり私はその時以来、このネクタイピンに対する相応の代価を、その女の子に遇ったならば返してやろうと心がけていたのだ。だが、それはどうも無駄らしい。もう時日も大分経ってしまったし、そうかと云って、警察に頼める性質のものではなし、それに第一肝心なその子の人相が私自身にすらはっきりと見とめられてはいなかったのだから。……そうしてみれば、その子に、たとい身なりだけなりと似通っている君に、――そしてまた、変な事を云うようだが、その子だってどうせ銀座辺にそうしていたのだから、やっぱり君たちの知合かも知れない――その君に、この五十円を上げるのは満更無意味でもなかろう。……どうだい?ね、わかったろう。だから、遠慮しないでこれを全部持って行く方がいいよ。」
井深君は、そう語り終えて娘の方を見た。
すると、おどろいたことに、娘は両手を顔におし当てて、シクシクと泣いているではないか。そして泣きじゃくりながら云うのである。
「――あたし、……あたし……なんて悪い子なんでしょう。……すみません、すみません。あなたみたいな良い方にそんな事をするなんて……」
井深君はびっくりした。
「おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……」
「あたし……あたしがその悪い子だったのよ。」
「え、君が※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
井深君はハタと当惑した。なぜと云って、井深君の今話して聞かせたのは、便宜上、そして無論揶揄半分の気持も手伝って喋った全然根も葉もない井深君一流の作り噺だったのだから。タイピンは、つい一月程前に新しく買ったものである。
(どこまでも途方もない小娘なのだろう……)
遉の井深君も呆れ返ってしまった。が、なんぼなんでも今更自分でそれをぶち壊わすわけにも行かない。井深君はまるで魔法にでもかかったような頼りない気持で娘の肩に手をかけて云ったのである。
「――もういい。もういい。泣くのはお止し。私は最早や何とも思ってやしないのだから。……いや、それどころか、今も云った通り私はむしろ気の毒にさえ感じていたのだ。」
「すみません。すみません。……あんた本当にいい方ね。あの時だってそう思ったのだけれど。……だけど、あの時のあたしの顔を思い出せないなんてないわ。ねえ、あたしだったでしょう?……あたしの顔、よく見て。ねえ、もっとそばでよく見てちょう
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