それがいい。そして、やはりお金を持っておいで――」
 井深君は、ほっとした気持で、直ぐ外套と上衣の釦を外してふところに手を差し入れた。すると娘はあわただしくそれを押え止めて、
「嫌よ、嫌よ。お金なんか!……あたし、つまんないわ。」と殆ど泣きそうな声でそう云うのである。
「だって、それでは可笑しいじゃないか――」
「いいの。その代り、お願いがあるのよ。このピンを、もう一っぺん私の手であなたにささせて下さらないこと?……おいや?」
「ちっとも嫌なことはないが、しかし……」
「有難う!」
 娘はちょっと背延びをし乍ら、井深君の首に片腕を巻きつけて、そしてそのタイピンをさした。それからそれが済むと、両手で井深君の耳をひっぱって、井深君に雪だらけの目と鼻と口とで接吻するが早いか、「サヨナラ!」と叫んで、威勢よく雪の中を駆け出して消えてしまったのである……

    *    *    *

「……僕は、それで呆然としてしばらく其場に佇んでいた。……」と井深君は鳥渡言葉を切って、軽い溜息を一つ吐いた。
「なんだ。それでお終いかい? いやはや! 僕たちは何も君のローマンスを聞く筈ではなかったのだが――」と聴き手の一人が苦情を申し立てた。
「それでお終いにしてもいい。――それだと、それっきりだと誠に可憐でいいではないか。……が、残念なことに未だ少しあとがある。……それは、なぜ僕がその場に雪だるまのようになり乍ら呆然と立ち尽してしまったかと云うことだ。君たちに解るかね?」
「なぜだ?」
「つまり、僕は自分の愚しい思い付きの嘘から、そのオレンジ色の娘に如何にして僕のふところの紙入を盗み取るかを教えてしまったからさ――」
「なる程!小娘のために見事にしてやられたのだね。……が、ところで、どっこい、その紙入の中はまた古新聞の束ばかりだったと云うのだろう! こいつあ傑作だね。は、は、は、は……」と始終探偵小説ばかりを愛読している友がしたり顔に云って笑った。
「いやいや、早合点をしてくれては困る。それ程あくどい洒落ではない。――それに、そんな酷い細工をするには、相手はあまりに可愛らしい好い子だった。ざっと二千円。紙入の紙幣は全部本物だったよ……」井深君はそう云って口を噤んだ。
「すっかり本物だって? 二千円!……」不思議な不安の影が居合せた人々の顔に行き渡った。
 井深君は、そこでこうつけ加え
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