う。……話と云うのはそれだけだよ。で、つまり私はその時以来、このネクタイピンに対する相応の代価を、その女の子に遇ったならば返してやろうと心がけていたのだ。だが、それはどうも無駄らしい。もう時日も大分経ってしまったし、そうかと云って、警察に頼める性質のものではなし、それに第一肝心なその子の人相が私自身にすらはっきりと見とめられてはいなかったのだから。……そうしてみれば、その子に、たとい身なりだけなりと似通っている君に、――そしてまた、変な事を云うようだが、その子だってどうせ銀座辺にそうしていたのだから、やっぱり君たちの知合かも知れない――その君に、この五十円を上げるのは満更無意味でもなかろう。……どうだい?ね、わかったろう。だから、遠慮しないでこれを全部持って行く方がいいよ。」
 井深君は、そう語り終えて娘の方を見た。
 すると、おどろいたことに、娘は両手を顔におし当てて、シクシクと泣いているではないか。そして泣きじゃくりながら云うのである。
「――あたし、……あたし……なんて悪い子なんでしょう。……すみません、すみません。あなたみたいな良い方にそんな事をするなんて……」
 井深君はびっくりした。
「おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……」
「あたし……あたしがその悪い子だったのよ。」
「え、君が※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 井深君はハタと当惑した。なぜと云って、井深君の今話して聞かせたのは、便宜上、そして無論揶揄半分の気持も手伝って喋った全然根も葉もない井深君一流の作り噺だったのだから。タイピンは、つい一月程前に新しく買ったものである。
(どこまでも途方もない小娘なのだろう……)
 遉の井深君も呆れ返ってしまった。が、なんぼなんでも今更自分でそれをぶち壊わすわけにも行かない。井深君はまるで魔法にでもかかったような頼りない気持で娘の肩に手をかけて云ったのである。
「――もういい。もういい。泣くのはお止し。私は最早や何とも思ってやしないのだから。……いや、それどころか、今も云った通り私はむしろ気の毒にさえ感じていたのだ。」
「すみません。すみません。……あんた本当にいい方ね。あの時だってそう思ったのだけれど。……だけど、あの時のあたしの顔を思い出せないなんてないわ。ねえ、あたしだったでしょう?……あたしの顔、よく見て。ねえ、もっとそばでよく見てちょう
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