しまいたかった。
私は一人でじっとしていることがやり切れなくなって、そこで姉を揺り起こした。
――姉さん、ごらんなさい。あの雲の中にそびえている大きな建築を。」
私は窓を開け放して、姉に遙かの町の景色を見せてやるのであった。
――僕は、いまに、あれよりももっと立派な大建築をこしらえて、姉さんを住まわしてあげますよ。」
すると姉は首を上下にうなずかせながら、手真似をして答えた。
――バカヤロウ、アレハ、カンゴクジャナイカ!」
――ちがいますよ!」と私はびっくりして答えた。
――オマエハ、バカダカラ、シラナイノダ。ワタシハ、オオキイウチハ、ミンナキライダヨ。」
――では、みんな壊してしまいましょう。」と私は昂然として云った。
――アンナ、オオキイウチガ、オマエニ、コワセルモノカ、ウソツキ!」
――ダイナマイトで壊します。」
――ソレハ、ナンノコト?」
――薬です……」
私は、黒い本を開いて読み上げた。
[#ここから3字下げ]
「ニトログリセリン 〇・四〇
硝石 〇・一〇
硫黄 〇・二五
粉末ダイアモンド 〇・二五
[#ここで字下げ終わり]
――ワタシハ、ソノクスリヲ、ノンデ、シニタイト、オモウ……」
4
夕方になると、夕風の吹いている街路へ、姉は唇と頬とを真赤に染めて、草花の空籠を風呂敷に包んで、病み衰えた身を引きずって出かけた。
私は窓から、甃石道を遠ざかって行く姉の幽霊のように哀れな後姿を、角を曲ってしまう迄見送った。
たそがれの空は、古びた絵のように重々しく静かに、並木の上に横《よこたわ》っていた。
私は、急に胸を轟かして、並木の黒い蔭を一本一本眺め渡した。私はすぐに派手な、紅い短い上衣を着た若い女の姿を見つけ出した。彼女は、毎晩、そうして男を待っているのである。待つが程なく男はやって来る。男は黒いマントを長く着て、黒い大きな眼鏡をかけ、そして黒い見事な髭をはやしていた。私は軍人の父が形見に残していった望遠鏡で男と女との媾曳を覗いた。その事は私に、今迄ついぞ経験したこともない、不思議なる悦びを感じさせた。私は毎晩々々のぞいた。その紅い上衣の女は、しばしば街の飾窓や雑誌などの写真で見覚えの或る名高い女優らしかった。男は、私が覗く度毎にドキンとさせられる程、いつか姉が私の顔へ眼鏡と髭とを悪戯書したその時の私の人相と、まるでそっくりなのである。
私はそこで顔ばかりでなく、心迄がその男と共通のものを持っていたと見えて、その恋人である女優へ、まことにやみがたい恋慕の情を抱きはじめるに至ったのである。
私は姉の眼をぬすんで、ひそかに黒い眼鏡と、黒いつけ髭とを買いととのえた。
そして或る晩私は遂に、その男よりたった一足先廻りをして彼女と会った。
私は毎晩、その男のすべての動作をよく研究して会得していた。私は口笛を軽く吹きながらステッキを振って、ゆっくりと大胆に近づいて行った。女は、そんなに巧みに変装した私にどうして気がつく筈があろう。果して、、彼女は並木の木蔭からいそいそ走り出ると、ニッコリ笑いかけて、優雅な身振りで可愛らしい両手をさしのべた。私は、恥しさと、嬉しさと不安とでぶるぶる慄えた。
目近くに見た彼女は何と云う美しい女であろう! 私は彼女のエメロオドのような瞳に、またもぎ立ての果物のような頬に、また紅い花模様の上衣の下にふくらんだ胸に、私の命を捨てても惜しくはなかった。
私は勇気をふるって、鳶色の木下闇《このしたやみ》で彼女を抱き寄せた。
――いけないわ。」
彼女は危く私のつけ髭の上へ唇を外らした。
――ニセ者!」と彼女は私を叱った。
私は、失敗った、と思った。
――未だ、つけ髭なんかでごまかしているのね。なぜ、ほんものの髭を生やさないの?」
――姉が、ゆるさないものですから……」と私はどもった。
――姉さんなんか、捨てておしまいなさいよ。」
――あなたは、僕の哀れな姉を、御存知ですか?」
――ほんものの髭が生える迄は、あたしお会い出来ませんわ。」
――どうぞ!」と私は喘いだ。
――いや!」
彼女は強か私を振りもぎって立ち去りかけたが、ちょっと足をとめてふり返って、――もしも、髭がほんとに生えたならば、あなたの窓へ、汽車のシグナルみたいな赤い電気をつけてちょうだい。」と云った。そしてまたすたすたと、連なる並木の蔭へ吸い込まれて行った。
私は茫然と立ちつくすのみであった。
――男は髭を生やさなければ、ほんとうの値打が現われないものであろうか?」
だが、その次にふと私は、頭の中に今頃は何処かの四辻に立って、草花を売っているに違いない、姉のしなびた醜い顔を思い浮かべて、またしても泪に暮れた。
――
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