されて家に落着いている時よりも同盟本部につめ切っていることの方が多くなった。それに此処の住居は郊外の大きな寺の境内にあったので、墓地や林や古沼などに取り囲まれていて非常に淋しい。それで葛飾の留守の間は自然小野が美代子のおもりをつとめなければならなかった。小野はこれ迄のように夜になって酒を飲みにも出て歩けない。もともと小野の方が長い馴染みでもあるし、美代子は葛飾よりもむしろ小野に親しさを増すのだ。しかも葛飾の潔癖な性格はそんな二人の間を更に気に留める様子も見えなかった。
 やがて、小野は美代子をモデルにして久し振りで丹精したものを描いてみたいと云い出した。併しニュードではないのだから、葛飾はもとよりそれを承諾した。ところがそうして毎日々々二人きりでさし向いの為事《しごと》をしている中に、何方《どちら》から云い出すともなく、小野と美代子はつい過ちを犯してしまったのである。小野は昨日《きのう》の午後初めてその事を葛飾に打ち明けて美代子をあらためて譲り受けたいと申し出た。すると葛飾は、裏切られたのを非常に憤って小野に自分の家から出て行くことを要求した。美代子に就いては、彼は依然として彼女を愛していたので、彼女の自由意志に任せると云った。だが愈々そうなって見ると、彼女自身にも実際二人の何方を愛しているものやら俄かには極め難いものがあったのである……
 夜になって、小野が街へ多分酒でも飲みに出かけてしまった後で、美代子は居間で気を腐らせながら読書していた葛飾のところへ詫びに[#「詫びに」は底本では「詑びに」]行った。それが却って葛飾を一層怒らせることになって、挙句の果に葛飾は、ヒステリイを起してまるで頑是ない子供のようにむしゃぶりつく美代子を振りもぎって戸外へ飛び出して行った。葛飾が夫婦喧嘩の原因を話すことを拒んだのはそんな次第からなのである。……
『――折角の葛飾の心遣いを空《あだ》にするようですけれども、それだからと申しまして、わたくしにしてみればこれ以上隠し立てをするわけにはゆきません……』と美代子は咽び泣きながら役人に打ち明けた。
 わたくしはそれで、結局小野さんと葛飾と何方が果して、一層深く自分を愛していてくれるか、知り度かったのでございます。何方でも愛情の度合の優っている方に、自分の行末を委ねなければならないと考えました。わたくしは以前、古い支那の小説で、ある人妻が佯《いつわ》って、井戸の中に身を投げたように見せかけて、どれ程夫が嘆き悲しむか、それに依って夫の、自分に対する愛情を測ると云う話を読んだことがございました。わたくしは、その故事に倣って、こんな不幸を惹き起した罪を償うために、裏の古沼に陥って死にます――と云う遺書を部屋に遺して、物置の中にひそみながら、男たちの戻るのを待って居りました。すると先に帰って来たのが小野さんでした。小野さんは、ひどく酔っていたようですけれども、直ぐにわたくしの遺書を見付けたものとみえて、殆ど泣き声のような叫びを上げながら裏の沼の方へ駆けて行きました。それから間もなく引返して来て、画室へ入ってしまうと、やがて、鈍い銃声が聞こえたのでございます。わたくしは、取り返しのつかない間違いを仕出かしたことを知りました。わたくしは無性に恐しくなって、その偽の遺書を火鉢に燻べてしまったのでございます――』

 3

 この陳述は係官を納得させたらしい。
『では、矢張失恋自殺でしょうかな。』
『いや、むしろ情死と見なすべきだろう。』
 彼等はそんな意見を云い合った。
 それから、追って沙汰をする――ことになって役人の一行は引き上げかけた。
 ふと、この時、さい前の刑事が電気に打たれたようにぎくり[#「ぎくり」に傍点]としたのである。
『このピストルは小野さんのですね?』と刑事は葛飾に訊ねた。
『そう――一昨年僕と二人で上海へ遊びに行った折、買ったものです。』
『届けは?』
『してありません。』
『ふむ――』
 刑事は死体と一番近い部分の壁を一心に瞶めている。白い壁の面に一銭銅貨程の大きさに、新しく欠け落ちた箇所がある。
『あの痕はどうしたのですか?』
『知りませんね。僕はそんな些細な莫迦げたことを気にかけたためしはないのです。』
 と葛飾は腹立し気に答えた。
 刑事はそれを黙って聞き流しながら、しきりにその壁の欠け目の位置を目で計った。
 刑事はピストルを手巾《ハンカチ》で注意深く取り上げて鞄に入れて帰って行った。
 刑事は路すがら考えた。――どうも、あの女の話は当になったものでない。支那の小説を読んでそれに倣ったところが男が本当に死んでしまったなぞと云うのは、如何にもあんな娘の好きそうな空想ではないか。三角関係が主因になっている点はおそらく事実であろう。その方が事件の筋みちが立つ――他殺に相違ない。あのピス
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