るもんですか。それから、僕は、あなたが、裏木戸のところで犬を呼んでいるのを見かけたことだってあるんですぜ。』
『まあ!――嬉しいわ。』
二人はそこで接吻をした。
例の辻君たちが通りかかったが、恋人同志だと気付くと、エヘン! と咳払いを浴せながら行き過ぎた。
二人は立ち上がった。
『妾の伯母さんの家へ行きましょう。何時でも帰れるように、妾のお部屋が別にあるの。ちっとも気兼ねなんか要らないわ。』
『たった今約束したばかりで、もうそんな真似をしてもいいのかしら――』Y君は遉にびっくりした。
『なあに? 誰がお泊んなさいって云って? ――可笑しい人ねえ。でも、大丈夫。泊めて上げてよ。』
Y君と娘は楽しく腕を組み合わせながら。公園を抜けると、空車を拾って乗った。伯母さんの家と云うのは、暗い山の手町にある下等な下宿屋の一軒だった。そこの狭い階段を娘に手を引かれながら上がる時、上の方から降りて来た病気持ちらしい醜い大年増が、すれ違いざまに娘の耳を引っぱって笑った。Y君はその女が、公園で最初の夜に、自分に云い寄った鴇色のリボンの女に似ているような気がしてならなかった。
『伯母さん?』
『ええ、そう――』
Y君はいきなり娘の手をふりもぎって、戸外へ走り出し度くなったのを漸く我慢した。方々の扉の隙間から、風体の悪い下宿人共が羨ましそうにY君を眺めていた。
『ベアトリイチェや、帳場へ行って電話をかけて来ておくれ。』とY君は突然思い付いたように云った。
『中央区、二千七百九○番――お嬢さんにお休みなさいまし、とね。それだけで、いいんだよ。』
『あら、お安くないわね。何処のお嬢さん?』
『君なんか知る必要のない人さ。とにかく、それだけ取次いでくれたまえ。こちらの名は、ピアノの先生でもお医者でも撮影所の小使でも何でもいい。……』
Y君は、娘が出て行ってしまうと、さて寝台の上に引っくり返って、ありったけ大声で笑ってみた。
それから、鏡台の上の酒を択んで、幾杯も幾杯も立てつづけに祝盃を上げた。青春との別れのために……
翌朝。
軍服にブラシをかけてくれる女にY君はきいた。
『一体、いくら上げればいいのだろうね?』
すると、女は嬉しそうに微笑してみせた。
『いいえ、いくらでもないの。――あなたを口説き落すことは、もう永いこと、あたしたちの賭けだったんですもの。……』
Y君は、併し、幾許も入ってはいなかったが紙入れごと、彼女の手の中に握らせて帰った。
Y君は、それから間もなく、小さい時から知り合いの、帽子工場に働いている娘と結婚して、最も善良な夫になったと云う。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1929年8月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月30日公開
2007年10月14日修正
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