けてしまつても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます。丁度、慈愛の深い母親といつしよに居る時のやうな心持になつて居るのであります。
私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛……と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。処がです、此の、個人主義の、この戦闘的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか。中々それは出来にくい事であります。そこで、勢之を自然に求めることになつて来ます。私は現在に於ても、仮令、それが理窟にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。母の慈愛――母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を……その大願をたてられた仏の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。
猶茲に、海に附言しまして是非共ひとこと[#「ひとこと」に傍点]聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。私が、流転放浪の三ヶ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て……そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふことであります。勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光り[#「光り」に傍点]といふものを見逃がす事も出来ません。之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつ[#「こいつ」に傍点]が絶対に見られない事であります。私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧糢糊たるものに憧憬れて、三年の間、飄々乎として歩いて居たといふわけであります。それが、この度、仏恩によりまして、此庵に落ち着かせていたゞく事になりまして以来、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す訳で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年中の人間好時節といふ次第なのであります。
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念仏
六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。此の六畳が大変に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳替へをしたばかりのとこなのださうでした。六畳の仏間は奇麗になつて居ります。此の島の人……と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて来て、この六畳の仏間にみんなが坐つて、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。
それはお念仏を申す[#「申す」に傍点]とか、御詠歌を申す[#「申す」に傍点]とか、島の人は云ふのです。それで、只単に「申しに[#「申しに」に傍点]来ました」とか、「申さう[#「申さう」に傍点]ぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。そこで可笑しい事には、このお念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]と新ぶし[#「新ぶし」に傍点]とがあるのであります。「旧ぶし」と云ふのは、ウン[#「ウン」に傍点]と年とつたお婆さん連中が申す調子であります。「新ぶし」は中年増と云つたやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふし[#「ふし」に傍点]であります。そのふし[#「ふし」に傍点]廻しを聞いて居りますと、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]は平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶし[#「新ぶし」に傍点]の方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓挫あり、中々に面白いものであります。ですから、其の持つて居る道具にしても、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]の方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶし[#「新ぶし」に傍点]の方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な鈴《リン》を持ちます。その鈴の棒の処々には、洋銀か、ニツケル[#「ニツケル」に傍点]かのカネ[#「カネ」に傍点]の輪の飾りが填めこんでありまして、ピカ/\光つて居る、棒の上からは赤い房がさがつて居る。中々美しいものでありますが、それを右の手に持つてリンリン[#「リンリン」に傍点]振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十
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