なし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツ[#「ボーツ」に傍点]として居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです。灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/″\感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
 次に、この毎日の仕事……園では托鉢[#「托鉢」に傍点]と申して居ります……之が実に種々雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモツト[#「モルモツト」に傍点]の代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません。これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日々々やつて居ります間に、大に私のため[#「ため」に傍点]になることを一つ覚えたのであります。それはかう云ふ事です。百万長者の家庭には入つて見てもカラ/\[#「カラ/\」に傍点]の貧乏人の家庭には入つて行つて見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云つた風なことなのです。ですから万事思ふまゝになつて、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無い[#「少しも無い」に傍点]と云ふ事でありました。仏力は広大であります。到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとはふり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやつて来たの
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