ろがつて居る小さな、つまらない石ツころ[#「石ツころ」に傍点]に向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ[#「石ツころ」に傍点]、又蹴りそこなつて、ヒヨコン[#「ヒヨコン」に傍点]とそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ[#「石ツころ」に傍点]、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ッころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか。いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかた[#「しかた」に傍点]がないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころ[#「石ツころ」に傍点]でも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益※[#二の字点、1−2−22]意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至つてはどうでせう。雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。
 私は屡※[#二の字点、1−2−22]、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころ[#「石ツころ」に傍点]を産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云ったやうなものがあります。その道の方では、これをくろたま[#「くろたま」に傍点]と云って居ります。ですから、木と同様、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな……とか、石も、
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