フ聲は神に謝する祈祷の歌となり、この歌又變じて歡呼となる。忽ち柔なる笛の音起れり。是れヂド[#「ヂド」に傍線]が戀の始なるべし。戀といふものは我が未だ知らざるところなれど、この笛の音は、我に髣髴《はうふつ》としてその面影を認めしめたり。忽ち角聲|獵《かり》を報ず。暴風又起れり。樂聲は我を引いて怪しき巖室《いはむろ》の中に入りぬ。是れ温柔郷なり。一呼一吸戀にあらざることなし。忽ち裂帛《れつぱく》の聲あり。幕は開きたり。
エネエアス[#「エネエアス」に傍線]は去らんとす。去りてアスカニウス[#「アスカニウス」に傍線](エネエアスの子)がために、ヘスペリヤ[#「ヘスペリヤ」に二重傍線](晩國の義、伊太利)を略せんとす。去りてヂド[#「ヂド」に傍線]を棄てんとす。憐むべしヂド[#「ヂド」に傍線]はおのれが榮譽と平和とを捧げて、これを無情の人におくり、その夢猶未だ醒めざるなり。エネエアス[#「エネエアス」に傍線]が歌にいはく。その夢は早晩《いつか》醒むべし。トロアス[#「トロアス」に二重傍線]の兵《つはもの》黒き蟻の群の如く獲《えもの》を載せて岸に達せば、その夢いかでか醒めざることを得ん。
ヂド[#「ヂド」に傍線]は舞臺に上りぬ。その始めて現はるゝや、萬客|屏息《へいそく》してこれを仰ぎ瞻《み》たり。その態度、その嚴《おごそか》なること王者の如くにして、しかも輕《かろ》らかに優しき態度には、人も我も徑《たゞち》に心を奪はれぬ。初めわれこのヂド[#「ヂド」に傍線]といふ役を我心に畫きしときは、その姿いたく今見るところに殊《こと》なりしかど、この歌女の意外なる態度はすこしも我興を損ふことなかりき。その優しく愛らしく、些《ちと》の塵滓《じんし》を留めざる美しさは、名匠ラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]が空想中の女子の如し。烏木《こくたん》の光ある髮は、美しく凸《なかだか》なる額を圍めり。深黒なる瞳には、名状すべからざる表情の力あり。忽ち喝采の聲は柱を撼《ゆるが》さんとせり。こは未だその藝を讚むるならずして、先づ其色を稱ふるなり。所以者何《ゆゑいかに》といふに、彼は今|纔《わづか》に場《ぢやう》に上りて、未だ隻音《せきおん》をも發せざればなり。彼は面《おもて》に紅を潮して輕く會釋し、その天然の美音もて、百錬千磨したる抑揚をその宣敍調《レチタチイヲオ》の上にあらはしつ。
友は遽《にはか》に我|臂《ひぢ》を把《と》りて、人にも聞ゆべき程なる聲していはく。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。あれこそ例の少女なれ、飛び去りたる例の鳥なれ、その姿をば忘るべくもあらず。その聲さへ昔のまゝなり、われ心狂ひたるにあらずば、わがこの目利《めきゝ》は違ふことなし。われ。例のとは誰が事ぞ。友。猶太廓《ゲツトオ》の少女なり。されど彼の少女いかにしてこの歌女とはなりし。不思議なり。有りとしも思はれぬ事なり。友は再び眼を舞臺に注ぎて詞なし。ヂド[#「ヂド」に傍線]は戀の歡を歌へり。清き情は聲となりて肺腑より迸《ほとばし》り出づ。是時《このとき》に當りて、我心は怪しく動きぬ。久しく心の奧に埋もれたりし記念は、此聲に喚《よ》び醒《さま》されんとする如し。この記念は我が全く忘れたるものなりき。この記念は近頃夢にだに入らざるものなりき。さるを忽ちにして我はその目前に現るゝを覺えき。今は我も亦ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と倶に呼ばんとす。あれこそ例の少女なれ。われ穉《をさな》かりし時、「サンタ、マリア、アラチエリ」の寺にて聖誕日の説教をなしき。その時聲めでたき女兒ありて、その人に讚めらるゝこと我右に出でき。今聞くところは其聲なり。今見るところ或は其人にはあらずや。
エネエアス[#「エネエアス」に傍線]は無情なる語を出せり。我は去りなん。我は嘗ておん身を娶《めと》りしことなし。誰かおん身が婚儀の松明《まつ》を見しものぞ。この詞を聞きたるときの心をば、ヂド[#「ヂド」に傍線]いかに巧にその眉目の間に畫き出しゝ。事の意外に出でたる驚、ことばに現すべからざる痛、負心《ふしん》の人に對する忿《いかり》、皆明かに觀る人の心に印せられき。ヂド[#「ヂド」に傍線]は今|主《おも》なる單吟《アリア》に入りぬ。譬へば千尋《ちひろ》の海底に波起りて、倒《さかしま》に雲霄《うんせう》を干《をか》さんとする如し。我筆いかでか此聲を畫くに足らん。あはれ此聲、人の胸より出づとは思はれず。姑《しばら》く形あるものに喩《たと》へて言はんか。大いなる鵠《くゞひ》の、皎潔《けうけつ》雪の如くなるが、上りては雲を裂いて※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]氣《かうき》たゞよふわたりに入り、下りては波を破りて蛟龍《かうりよう》の居るところに沒し、その性命は聲に化して身を出で去らんとす
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