とて、百「スクヂイ」の爲換《かはせ》を送り給ひぬ。我はあまりの嬉さに、西班牙《スパニア》磴《いしだん》を驅け上りて、ペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢに光ある「スクウド」一つ抛げ與へ、そのアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の主公《だんな》と呼ぶ聲を後《しりへ》に聞きて馳せ去りぬ。
 頃は二月の初なりき。杏花《きやうくわ》は盛に開きたり。柑子《かうじ》の木日を逐ひて黄ばめり。謝肉祭《カルネワレ》は既に戸外に來りぬ。馬に跨り天鵞絨《びろうど》の幟《のぼり》を建て、喇叭《らつぱ》を吹きて、祭の前觸《まへぶれ》する男も、ことしは我がためにかく晴々しくいでたちしかと疑はる。ことしまでは我この祭のまことの樂しさを知らざりき。穉《をさな》かりし程は、母上我に怪我せさせじとて、とある街の角に佇《たゝず》みて祭の盛《さかり》を見せ給ひしのみ。學校に入りてよりは、「パラツツオオ、デル、ドリア」の廡《ひさし》作《づく》りの平屋根より笑ひ戲るゝ群を見ることを許されしのみ。すべて街のこなたよりかなたへ行くことだに自由ならず。矧《まして》や「カピトリウム」に登り、「トラステヱエル」(河東の地なり、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河の東岸に當れる羅馬の一部を謂ふ)に渡らんこと思ひも掛けざりき。かゝれば我がことしの祭に身を委《ゆだ》ねて、兒どもの樣なる物狂ほしき振舞せしも、無理ならぬ事ならん。唯だ怪しきは此祭我生涯の境遇を一變するに至りしことなり。されどこれも我がむかし蒔きて、久しく忘れ居たりし種の、今緑なる蔓草《つるくさ》となりて、わが命の木に纏《まと》へるなるべし。
 祭は全く我心を奪ひき。朝《あした》にはポヽロ[#「ポヽロ」に二重傍線]の廣こうぢに出でゝ、競馬の準備《こゝろがまへ》を觀、夕にはコルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]の大道をゆきかへりて、店々の窓に曝《さら》せる假粧《けしやう》の衣類を閲《けみ》しつ。我は可笑しき振舞せんに宜《よろ》しからんとおもへば、状師《だいげんにん》の服を借りて歸りぬ。これを衣《き》て云ふべきこと爲すべきことの心にかゝりて、其夜は殆《ほとほ》と眠らざりき。
 明日《あす》の祭は特《こと》に尊きものゝ如く思はれぬ。我喜は兒童の喜に遜《ゆづ》らざりき。横街といふ横街には「コンフエツチイ」の丸《たま》賣る浮鋪《とこみせ》簷《のき》を列べて、その卓の上には美しき貨物《しろもの》を盛り上げたり。(「コンフエツチイ」の丸は石灰を豌豆《ゑんどう》[#「豌豆」は底本では「※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]豆」]の大さに煉りたるなり。白きと赤きと雜《まじ》りたり。中には穀物の粒を石膏泥中に轉《まろが》して作れるあり。謝肉祭の間は人々互に此丸を擲《なげう》ちて戲るゝを習とす。)コルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]の街を灑掃《さいさう》する役夫《えきふ》は夙《つと》に業を始めつ。家々の窓よりは彩氈《さいせん》を垂れたり。佛蘭西時刻の三點に我は「カピトリウム」に出でゝ祭の始を待ち居たり。(伊太利時刻は日沒を起點とす。かの「アヱ、マリア」の鐘鳴るは一時なり。これより進みて二十四時を數ふ。毎週一度|日景《ひかげ》を瞻《み》て、※[#「金+表」、44−下段−7]《とけい》を進退すること四分一時。所謂佛蘭西時刻は羅馬の人常の歐羅巴時刻を指してしかいふなり。)出窓《バルコオネ》には貴き外國人《とつくにびと》多く並みゐたり。議官《セナトオレ》は紫衣を纏ひて天鵞絨《びろうど》の椅子に坐せり。法皇の禁軍《このゑ》なる瑞西《スイス》兵整列したる左翼の方には、天鵞絨の帽《ベルレツタ》を戴ける可愛らしき舍人《とねり》ども群居たり。少焉《しばし》ありて猶太《ユダヤ》宗徒の宿老《おとな》の一行進み來て、頭を露《あらは》して議官の前に跪きぬ。その眞中なるを見れば、美しき娘持てりといふ彼ハノホ[#「ハノホ」に傍線]にぞありける。式の辭をばハノホ[#「ハノホ」に傍線]陳べたり。我宗徒のこの神聖なる羅馬の市の一廓に栖《す》まんことをば、今一とせ許させ給へ。歳に一たびは加特力《カトリコオ》の御寺《みてら》に詣でゝ、尊き説法を承り候はん。又昔の例《ためし》に沿ひて、羅馬人の見る前にて、コルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]を奔《はし》らんことをば、今年も免ぜられんことを願ふなり。若しこの願かなはゞ、競馬の費、これに勝ちたるものに與ふる賞、天鵞絨の幟の代《しろ》、皆|法《かた》の如く辨《わきま》へ候はんといふ。議官《セナトオレ》は頷きぬ。(古例に依れば、この時議官足もておも立ちたる猶太の宿老の肩を踏むことありき。今は廢《すた》れたり。)事果つれば、議官の一列樂聲と倶《とも》に階を下り、舍人《とねり》等を隨へて、美しき車に乘り遷《うつ》れり。是を祭の始とす。「カピトリウ
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