も待たで猶太の翁を訪へ。われ。そは餘りに無理なる囑《たのみ》なり。我が爲すべきことの面正しからぬはいふも更なり、汝が志すところも卑しき限ならずや。その少女|縱令《よしや》美しといふとも、猶太の翁が子なりといへば。士官。それ等は汝が解《げ》し得ざる事なり。貨《しろもの》だに善くば、その産地を問ふことを須《もち》ゐず。友よ、善き子よ。我がためにヘブライオス[#「ヘブライオス」に二重傍線]の語を學べ。我も諸共に學ばんとす。たゞその學びさまを殊にせんのみ。想へ、我がいかに幸ある人となるべきかを。我。わが心を傾けて汝に交るをば、汝知りたるべし。汝が意志、汝が勢力のおほいなる、常に我心を左右するをも、汝知りたるべし。汝若し惡人とならば、我おそらくは善人たることを得じ。そは怪しき力我を引きて汝が圈《わ》の中に入るればなり。我は素より我心を以て汝が行を匡《たゞ》さんとせず。人皆天賦の性《さが》あり。そが上に我は必ずしも汝が將に行はんとする所を以て罪なりとせず。汝が性然らしむればなり。されど此事は、縱令成りたらんも、汝が上にまことの福を降すべきものにあらずとおもへり。士官。善し/\。我はたゞ汝に戲れたるのみ。我がために汝を驅りて懺悔の榻《たふ》に就かしめんは、初より我願にあらず。たゞ汝がヘブライオス[#「ヘブライオス」に二重傍線]の語を學ばんに、いかなる障《さはり》あるべきか、そは我に解せられず。況《いは》んやそを猶太の翁に學ぶことをや。されどこの事に就きては、我等また詞を費さゞるべし。今日は善くこそ我を訪ねつれ。物欲しからずや。酒飮まずや。
友なる士官がかく話頭を轉じたるとき、我はその特《こと》なる目《ま》なざしを見き。こはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が學校にありしとき屡※[#二の字点、1−2−22]ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]に對してなしたる目なざしなりき。友の擧動《ふるまひ》、その言語、一つとして不興のしるしならぬはなし。我も快からねば程なく暇乞して還りぬ。別るゝときは友の恭《うや/\》しさ常に倍して、その冷なる手は我が温なる手を握りぬ。我はわが辭退の理に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》へる、友の腹立ちしことの我儘に過ぎざるを信じたりき。されど或時は無聊に堪へずしてベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なつかしく、我詞の猶|穩《おだやか》ならざるところありしを悔みぬ。一日散歩のついで、吾友の上をおもひつゝ、かの猶太廓《ゲツトオ》に入りぬ。若し期せずして其人に逢はゞ、我友の怒を霽《はら》す便《たより》にもならんとおもひき。されど我は彼翁をだに見ざりき。門《かど》よりも窓よりも、知らぬ人面を出せり。街の兩側なる敷石の上には、例の古衣、古かねなど陳《の》べたるその間には見苦き子供遊べり。物買はずや、物賣らずやと呼ぶ聲は、我を聾《みゝしひ》にせんとする如し。少女あり。向ひの家なる友と、窓より窓へ毬《まり》投げつゝ戲れ居たり。そが一人は頗《すこぶる》美しと覺えき。吾友の戀人はもしこれにはあらずや。我は圖らず帽を脱したり。嗚呼、おろかなる振舞せしことよ。我は人の思はん程も影護《うしろめた》くて、手もて額を拭ひつ。こは帽を脱したるは、少女のためならで、暑に堪へねばぞと、見る人におもはしめんとてなりき。
一とせの月日は事なくして過ぎぬ。稀にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に逢ふことありても、交情昔のごとくならず。我はそのやさしき假面の背後に、人に※[#「りっしんべん+敖」、第4水準2−12−67]《おご》る貴人の色あるを見て、友の無情なるを恨むのみにて、かの猶太廓の戀のなりゆきを問ふに遑《いとま》あらざりき。ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館をば頻におとづれて、主人の君、フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の人々のやさしさに、故郷にある如き思をなしつ。されどそれさへ時としては胸を痛むる媒《なかだち》となることありき。我胸には慈愛に感ずる情みち/\たれば、彼人々の一たび顰《ひそ》めることあるときは、徑《たゞち》に我世の光を蔽はるゝ如く思ひなりぬ。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の我性を譽めつゝも、強ひて備はらんことを我に求めて、わが立居振舞、わが詞遣《ことばづかひ》の疵《きず》を指すことの苛酷なる、主人の君のわが獨り物思ふことの人に踰《こ》えたるを戒《いまし》めて、わが草木などの細かなる區別に心入れぬを咎め、我を自ら卷きて終には萎《しを》るゝ葉に比べたる、皆我心を苦むるものなりき。我齡は早く十六になりぬ。さるを斯《か》ばかりの事に逢ひて、必ず涙を墮《おと》すは何故ぞや。主人の君は我が憂はしげなるさまを見ると
前へ
次へ
全169ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング