借らずば、人々の前に出づることを得ざるべし。我心|爭《いか》でかこれに堪へん。我に勢あるをぢあり。我はこれに我上を頼みき。我は身を屈して願ひき。こはわが未だ嘗て爲さざることなり。わが敢てせざるところなり。我はその時又汝が事をおもひ出しつ。斯くわが心に負《そむ》きて人に頼るも、その原《もと》は汝に在るらんやうにおもはれぬ。この故に我は汝に對して、忍びがたき苦を覺ゆるなり。我は一たびこゝを去りて、別に身を立つるよすがを求め、その上にて又汝が友とならん。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。願はくはその時を待て。吾は去らん。
この夕ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は晩《おそ》く歸りて床に入りしが、翌朝は彼が退校の噂諸生の間に高かりき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は思ふよしありて、目的を變じたりとぞ聞えし。
ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は冷笑の調子にていはく。彼男は流星の如く去りぬ。その光を放てると、その影を隱しゝとは、一瞬の間なりき。その學校生涯は爆竹の遽《にはか》に耳を駭《おどろ》かす如くなりき。その詩も亦然なり。彼草稿は猶我手に留まれり。何等の怪しき作ぞ。熟※[#二の字点、1−2−22]《つら/\》これを讀むときは、畢竟是れ何物ぞ。斯くても尚詩といはるべき歟《か》。全篇支離にして、絶て格調の見るべきなし。看て瓶《へい》となせば、これ瓶。盞《さん》となせば、是れ盞。劍となせば、これ劍。その定まりたる形なきこと、これより甚しきはあらず。字を剩《あま》すこと凡そ三たび。聞くに堪へざる平字《ひやうじ》の連用(ヒアツス)あり。神《ヂアナ》といふ字を下すことおほよそ二十五處、それにて詩をかう/″\しくせんとにや。性靈よ、性靈よ。誰かこれのみにて詩人とならん。このとりとめなき空想能く何事をか做《な》し出さん。こゝに在りと見れば、忽焉《こつえん》としてかしこに在り。汝は才といふか。才果して何をかなさん。眞の詩人の貴むところは、心の上の鍛錬なり。詩人はその題のために動さるゝこと莫《なか》れ。その心は冷なること氷の如くならんを要す。その心の生ずるところをば、先づ刀もて截《き》り碎き、一片々々に査《しら》べ視よ。かく細心して組み立てたるを、まことの名作とはいふなり。厭ふべきは熱なり、激興なり。誰かその熱に感じて、桂冠を乳臭兒の頭に加へし。その詩に史上の事實を矯《た》め、聞くに堪へざる平字の連用をなしたるなど、皆|笞《むちう》ち懲《こら》すべき科《とが》なるを。我はまことに甚しき不快を覺えき。かゝる事に逢ふごとに、我は健康をさへ害せられんとす。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のこわつぱ奴《め》。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が批評は大抵此の如くなりき。
學校の中、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が去りしを惜まざるものなかりき。されどその惜むことの最も深きは我なりき。身のめぐりは遽《にはか》に寂しくなりぬ。書を讀みても物足らぬ心地して、胸の中には遺るに由なき悶《もだえ》を覺えき。さて如何《いかに》してこれを散ずべき。唯だ音樂あるのみ。我生活我願望はこれを樂の裡《うち》に求むるとき、始めて殘るところなく明《あきらか》なる如くなりき。こゝを思へば、詩には猶飽き足らぬところあり。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が雄篇にも猶我心を充たすに足らざるところあり。詩は我《わが》魂《こん》を動せども、樂はわが魂と共に、わが耳によりてわが魄《はく》を動《うごか》せり。夕されば我窓の外に、一群の小兒來て、聖母の像を拜みて歌へり。その調は我にわが穉《をさな》かりける時を憶ひ起さしむ。その調はかの笛ふきが笛にあはせし搖籃の曲に似たり、又或時は野邊送の列、窓の下を過ぐるを見て、これをおくる僧尼の挽歌を聽き、昔母上を葬りし時を思ひ出しつ。我心はこしかたより行末に遷《うつ》りゆきぬ。我胸は押し狹《せば》めらるゝ如くなりぬ。昔歌ひし曲は虚空より來りて我耳を襲へり。その曲は知らず識らず我唇より洩れて歌聲となりぬ。
ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が室は、我室を去ること近からぬに、我聲は覺えず高くなりて、そこまで聞えぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]人して言はしむるやう。こゝは劇場にもあらず、又唱歌學校にもあらず、讚美歌に非ざる歌の聞ゆるこそ心得られねとなり。われは默して答へず。頭を窓の縁に寄せかけて、目を街のかたに注ぎたれど、心はこゝに在らざりき。
忽ち街上より「フエリチツシイマ、ノツテエ、アントニオ」(幸《さち》あらん夜をこそ祈れ、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よといふ事なり、北歐羅巴にては善き夜をとのみいふめれど、伊太利の夜の樂きより、かゝる詞さ
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