ニき、われは何處に往くべきぞと問ひぬ。舟人は家と家との間を通ずる、橋の側なる隘《せば》き巷《こうぢ》を指ざし教へつ。兩邊の家に住める人は、おの/\六層樓上の窓を開いて、互に手を握ることを得べく、この日光を受けざる巷は、僅に三人の並び行くことをゆるすなるべし。我舟は既に去りて、身邊また寂《せき》として人を見ず。
 あはれヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]とは是か、海の配偶と云ひ、世界第一の富強者と云ひしヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]とは是か。われは名に聞えたるマルクス[#「マルクス」に傍線]の廣こうぢに入りぬ。こはヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の心胸と稱すべき處にして、國の性命は此《こゝ》に存ずといふなるに、その所謂《いはゆる》繁華は羅馬のコルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]に孰與《いづれ》ぞ、又拿破里《ナポリ》の市に孰與ぞ。石の迫持《せりもち》の下なる長き廊道《わたどのみち》には、書肆《しよし》あり珠玉店あり繪畫鋪あれども、足を其前に留むるもの多からず。唯だ骨喜店《カツフエエ》の前には、幾個の希臘人、土耳格《トルコ》人などの彩衣を纏ひて、口に長き烟管《きせる》を啣《ふく》み、默坐したるあるのみ。日は「マルクス」寺の星根の鍍金《めつき》せる尖《さき》と寺門の上なる大いなる銅馬《どうめ》とを照して、チユペルス[#「チユペルス」に二重傍線]、カンヂア[#「カンヂア」に二重傍線]、モレア[#「モレア」に二重傍線]等の舟の赤檣《せきしやう》の上なる徽章ある旗は垂れて動かず。數千の鴿《はと》は廣こうぢを飛びかひて、甃石《いしだたみ》の上に※[#「求/食」、第4水準2−92−54]《あさ》れり。
 われは進みてポンテ、リアルトオ[#「ポンテ、リアルトオ」に二重傍線]に到りて、いよ/\斯《この》土の風俗を知りぬ。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]は大いなる悲哀の郷なり、我主觀の好き對象なり。而して此郷の水の上に泛《うか》べること、古のノアの舟と同じ。われは小き舟を下りて、この大いなる舟に上りしなり。
 日の夕となりて、模糊として力なき月光の全都を被《おほ》ひ、隨處に際立ちたる陰翳《いんえい》を生ぜしとき、われはいよ/\ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の眞味を領略することを得たり。死せる都府の陰森《いんしん》の氣は、光明に宜しからずして幽暗に宜しければなり。われは
前へ 次へ
全337ページ中288ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング