c時の記憶とは、なつかしく美しきものながら、今はその美しさの彼《かの》メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]に逢ひて化石したるにはあらずやとおもはれたり。(メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]は希臘神話中の恐るべき處女神にして、之を視るものは忽ち石に化したりといふ。)煖き巽風《シロツコ》の吹くごとに、われはペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の温和なる空氣をおもひ出して意中にララ[#「ララ」に傍線]が姿を畫き、ララ[#「ララ」に傍線]によりて又その邂逅の處たる怪しき洞窟に想ひ及びぬ。われは彼《かの》物教へんとする賢き男女の人々の間に立ちて、上校の兒童の如くなるとき、心にはむかし賊寨《ぞくさい》にて博せし喝采と「サン、カルロ」座にて聞きつる讙呼《くわんこ》の聲とを思ひ、又人々の我を遇すること極めて冷なるが爲めに、身を室隅に躱《さ》けたるとき、心にはむかしサンタ[#「サンタ」に傍線]がもろ手さし伸べて、我を棄てゝ去らんよりは寧ろ我を殺せと叫びしことをおもひぬ。六とせは此の如くに過ぎ去りて、我齡は二十六になりぬ。
小尼公
フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人との間に生れし姫君の名をばフラミニア[#「フラミニア」に傍線]といひぬ。されど搖籃の中にありて、早く神に許嫁《いひなづけ》せさせ給ひしより、人々|小尼公《アベヂツサ》とのみ稱ふることゝなりぬ。この小尼公には、むかし我手にかき抱きて、をかしき畫などかきて慰めまつりし頃より後、再び見《まみ》ゆることを得ざりき。小尼公は教育の爲めにとて、四井街《クワトロ、フオンタネ》の尼寺にあづけられ給ひしより、早や六とせとなりぬ。境内《けいだい》を出で給ふことなく、母君なるフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の夫人ならでは往きて逢ふことを許されねば、父君すら一たびも面を合せ給ふことあらざりき。われ等は唯だ人傳《ひとづて》に姫君の今は全く人となり給ひて、その學藝をさへ人並ならず善くし給ふを聞きしのみ。
寺の掟《おきて》に依るに、凡そ尼となるものは、授戒に先だてる數月間親々の許に還り居て、浮世の歡《よろこび》を味ひ盡し、さて生涯の暇乞して俗縁を斷つことなり。この時となりて、再び寺に入るとそが儘我家に留まるとは、その女子の意志の自由に委《ゆだ》ぬといへど、そは只だ掟の上の事のみに
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