モ。母上は半ば戲のやうに、さらばその福の車に、われも倶に登るべきか、と問ひ給ひしが、俄に打ち驚きてあなやと叫び給ひき。この時大なる鷙鳥《してう》ありて、さと落し來たりしに、その翼の前なる湖を撃ちたるとき、飛沫は我等が面を濕《うるほ》しき。雲の上にて、鋭くも水面に浮びたる大魚を見付け、矢を射る如く來りて攫《つか》みたるなり。刃の如き爪は魚の脊を穿《うが》ちたり。さて再び空に揚らむとするに、騷ぐ波にて測るにも、その大さはよの常ならぬ魚にしあれば、力を極めて引かれじと爭ひたり。鳥も打ち込みたる爪拔けざれば、今更にその獲ものを放つこと能はず。魚と鳥との鬪はいよ/\激しく、湖水の面ゆらぐまに/\、幾重ともなき大なる環を畫き出せり。鳥の翼は忽ち斂《をさ》まり、忽ち放たれ、魚の背は浮ぶかと見れば又沈みつ。數分時の後、雙翼靜に水を蔽ひて、鳥は憩ふが如く見えしが、俄にはたゝく勢に、偏翼|摧《くだ》け折るゝ聲、岸のほとりに聞えぬ。鳥は殘れる翼にて、二たび三たび水を敲き、つひに沈みて見えずなりぬ。魚は最後の力を出して、敵を負ひて水底に下りしならむ。鳥も魚も、しばしが程に、底のみくづとなるならむ。我等は詞もあらで、此|光景《ありさま》を眺め居たり。事果てゝ後顧みれば、かの媼は在らざりき。
 我等は詞少く歸路をいそぎぬ。森の木葉《このは》のしげみは、闇を吐き出だす如くなれど、夕照《ゆふばえ》は湖水に映じて纔《わづか》にゆくてに迷はざらしむ。この時聞ゆる單調なる物音は粉碾車《こひきぐるま》の轢《きし》るなり。すべてのさま物凄く恐ろしげなり。アンジエリカ[#「アンジエリカ」に傍線]はゆく/\怪しき老女が上を物語りぬ。かの媼は藥草を識りて、能く人を殺し、能く人を惑はしむ。オレワアノ[#「オレワアノ」に二重傍線]といふ所に、テレザ[#「テレザ」に傍線]といふ少女ありき。ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]といふ若者が、山を越えて北の方へゆきたるを戀ひて、日にけに痩せ衰へけり。媼さらば其男を喚び返して得させむとてテレザ[#「テレザ」に傍線]が髮とジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]が髮とを結び合せて、銅の器に入れ、藥草を雜《まじ》へて煮き。ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]は其日より、晝も夜も、テレザ[#「テレザ」に傍線]が上のみ案ぜられければ、何事をも打ち棄てゝ歸り來ぬとぞ。我は此物語
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