ホひつゝ、掌《たなぞこ》を我肩上に置きて、晝見つる美人の爲めに思を勞すること莫《なか》れといふ。われ。然《し》か宣給《のたま》へど、接吻をばわれ博し得たり。渠《かれ》。そは固《もと》よりなり。されどわれを始終|繼子《まゝこ》たりしものとな思ひそ。われ。繼子たりしや否やは知らず。唯だ繼子らしかりしは事實なり。渠。われは未だ曾て繼子たりしことなし。おん身若し能く祕密を守らば、われは敢て告ぐるところあらんとす。われ。何事まれ語り給へ。われは誓ひて餘所《よそ》に洩さゞるべし。渠。さらば包まず語るべし。われは歸るさに故意《わざ》と手帳を遺《わす》れ置きぬ。そは日暮れて再び往かん爲めなり。原《も》と女といふものは、只二人居向ひては頑《かたくな》ならぬが多し。さて我は再び往きぬ。衣の綻びたるは、墻《かき》踰《こ》え籬《まがき》を穿《うが》ちし時の過《あやまち》なり。われ。さらば女はいかなりし。渠。晝見しよりも美しかりき。美しくして頑《かたくな》ならざりき。わが預《あらかじ》め度《はか》りし如く、さし向ひとなりては何のむづかしき事もなかりき。おん身が得しは只一つの接吻なりしが、わが得しは千萬にて總て殘る隈《くま》なき爲合《しあはせ》なりき。これよりはその時のさまを樂しき夢に見んとぞおもふ。便《びん》なきアントニオ[#「アントニオ」に傍線]よと語りもあへず、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はおのが臥房《ふしど》に跳り入りぬ。

   たつまき

 僧堂を辭し去る朝《あした》、大空は灰色の紗《うすぎぬ》を被せたる如くなりき。岸には腕たしかなる漕手《こぎて》幾人か待ち受け居て、一行を舟に上らしめたり。纔《ともづな》を解きてカプリ[#「カプリ」に二重傍線]に向ふ程に、天を覆ひたりし紗は次第に斷《ちぎ》れて輕雲となり、大氣は見渡す限澄み透りて、水面には一波の起るをだに認めず。美しきアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]は巖のあなたに隱れぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は後《しりへ》を指ざして、かしこにてはわれ薔薇を摘み得たりと云ふ。われは頷《うなづ》きて、心の中にはこの男の強顏《きやうがん》なることよ、まことは刺《はり》に觸れて自ら傷けしものをとおもひぬ。
 舟のゆくては杳茫《えうばう》たる蒼海にして、その抵《いた》る所はシチリア[#「シチリア」に二重傍線]の島なり、あらず
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