ヌりぶね》を陸《くが》に曳き上げたり。暮色漸く至れば、新に點《とも》したる燈火その光を増して、水面《みのも》は碧色にかゞやけり。一時四隣は寂として聲なかりき。忽ち歌曲の聲の岸より起るあり。こは漁父の妻子と共に歌ひ出せるにて、子どもらしき「ソプラノ」の音は低き「バツソオ」の音にまじりたり。一種の言ふべからざる情は我胸に溢《あふ》れて、我心はこれがために震ひ動けり。一の流星あり。その疾《と》きこと撃石火《げきせきくわ》の如く、葡萄の林のあなたに隕《お》ちぬとぞ見えし。けふ我に接吻せし氣輕なる新婦《にひよめ》の家も亦彼林のあなたにあり。われは彼女主人の美《うつくし》かりしをおもひ出で、又彼|海神《ポセイドン》祠《し》[#「祠」は底本では「詞」]の畔《ほとり》なる瞽女《ごぜ》の美しかりしをおもひ出でしが、その背後には心と身と皆美しかりしアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線][#「アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]」は底本では「アンヌチヤタ[#「アンヌチヤタ」に傍線]」]ありて、その一たび點したる火は今も猶我身を焦せり。我は餘りの堪へ難さに、口に聖母《マドンナ》の御名《みな》を唱へて、瓶裡《へいり》の薔薇一輪摘み、そを唇に押し當てつゝ心には猶アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上を思へり。われは情に堪へずして、僧堂を出で、海の方へ降り行きぬ。即ち星輝《せいき》を浴《あ》びたる波の岸に碎くる處、漁父の歌ふ處、涼風の面を撲《う》つ處なり。歩みて晝間過ぎし所の石橋の上に至りぬ。この時一人の身に大外套を被り、忙《せは》しげに我傍を馳せ去りたるあり。われはその姿勢態度を見て、直ちにそのジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]なるを知りぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は驀地《まつしくら》に走りて、曾て憩ひし白壁の家に向へり。我は心ともなく、その後に跟《したが》ひ行きぬ。家の窓よりは燈火の影洩りたるが、彼の外套着たる姿は其光に照されて、窓の直下に浮び出でぬ。われは葡萄架《ぶだうだな》の暗き處に躱《かく》れ、石に踞して其|状《さま》を覗ひ居たり。帷《まどかけ》を引かざれば、室の内外の光景は明白に我眼に映ぜり。この家の裏の方、側廂《かたびさし》に通ずる大なる梯《はしご》の室内より見ゆる處に、別に又一つの窓あるをも、われは此時始て認め得たり。
室内《へやぬち》には一小卓を安ん
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