閧ネる紐一つ解きたり。夫人は、おん身にふさはしからざる情《なさけ》といふものあるべしや、おん身の才《ざえ》あり、おん身の貌《かほばせ》ありてとさゝやきて、徐《しづ》かに臂《ひぢ》を我肩に纏ひ、きと目と目を見合せて、無際限の意味ありげなる、名状すべからざる微笑を面に湛《たゝ》へ、猶其詞を繼いで云ふやう。いかなれば妾《わらは》は初め君を知る明なくして、空想に耽り實世《じつせ》に疎《うと》き、偏僻《へんぺき》なる人とは看做《みな》したりけん。おん身は機微を知り給へり。機微を知るものは必ず能く勝を制す。妾が血を焚《や》いて熱をなすものは何ぞ。妾を病ましむるものは何ぞ。妾は寤《さ》めて何をか思へる。妾は寐《いね》て何をか夢みたる。おん身の愛憐のみ。おん身の接吻のみ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。妾が身を生けんも殺さんも、唯だおん身の命《めい》のまゝなり。夫人はひしと我身を抱けり。一道の猛火《みやうくわ》は夫人の朱唇より出でゝ、我血に、我心に、我|靈《たましひ》に燃えひろごりたり。彼時速し、此時遲し。はたと我頂を撃つものあり。嗚呼、功徳《くどく》無量なる聖母《マドンナ》よ。こはおん身の像を寫せる小※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]額《せうへんがく》にして、偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》壁頭より墮《お》ち來りしなり。否《あら》ず、偶※[#二の字点、1−2−22]墮ち來りしに非ず。聖母は我が慾海の波に沈み果てんを愍《あはれ》みて、ことさらに我を喚び醒《さま》し給ひしなり。否※[#二の字点、1−2−22]と叫びて、我は起ち上りぬ。我渾身の血は涌き返る熔巖にも比べつべし。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、妾《わらは》を殺せ、妾を殺せ、只だ妾を棄てゝな去りそと、夫人は叫べり。其|臉《かほ》、其|眸《まなじり》、其|瞻視《せんし》、其|形相《ぎやうさう》、一として情慾に非ざるもの莫《な》く、而《しか》も猶美しかりき。火もて畫き成せる天人の像とや謂ふべき。我身の内なる千萬條の神經は一時に震動せり。我は一語を出すこと能はずして、室を出で階《きざはし》を下りぬ、怖ろしきものに逐はれたらん如く。
戸の外の皆火なること、身の内の皆火なると同じかりき。薫赫《くんかく》の氣は先づ面を撲《う》てり。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の嶺は炎焔|霄《そら》を摩し、爆發
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