輪廓を、鋭く空に畫《ゑが》きたり。人の世にあるや、とある夕、何事もあらざりしを、久しくえ忘れぬやうに、美しう思ふことあるものなるが、かの歸路の景色、また然《さ》る類《たぐひ》なりき。國を去りての後も、テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の流のさまを思ふごとに、かの夕の景色のみぞ心には浮ぶなる。黄なる河水のいと濃《こ》げに見ゆるに、月の光はさしたり。碾穀車《こひきぐるま》の鳴り響く水の上に、朽ち果てたる橋柱、黒き影を印して立てり。この景色心に浮べば、あの折の心輕げなる少女子《をとめご》さへ、扁鼓《ひらづゝみ》手に把《と》りて、「サルタレルロ」舞ひつゝ過ぐらむ心地す。(「サルタレルロ」の事をば聊《いさゝか》注すべし。こは單調なる曲につれて踊り舞ふ羅馬の民の技藝なり。一人にて踊ることあり。又二人にても舞へど、その身の相觸るゝことはなし。大抵男子二人、若くは女子二人なるが、跳《は》ねる如き早足にて半圈に動き、その間手をも休むることなく、羅馬人に産れ付きたる、しなやかなる振をなせり。女子は裳裾《もすそ》を蹇《かゝ》ぐ。鼓をば自ら打ち、又人にも打たす。其調の變化といふは、唯遲速のみなり。)サンタ、マリア、デルラ、ロツンダ[#「サンタ、マリア、デルラ、ロツンダ」に二重傍線]の街に來て見れば、こゝはまだいと賑はし。魚蝋《ぎよらふ》の烟を風のまにまに吹き靡《なび》かせて、前に木机を据ゑ、そが上に月桂《ラウレオ》の青枝もて編みたる籠に貨物《しろもの》を載せたるを飾りたるは、肉|鬻《ひさ》ぐ男、果《くだもの》賣る女などなり。剥栗《むきぐり》並べたる釜の下よりは、火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]立昇りたり。賈人《あきうど》の物いひかはす聲の高きは、伊太利ことば知らぬ旅人聞かば、命をも顧みざる爭とやおもふらむ。魚賣る女の店の前にて、母上識る人に逢ひ給ひぬ。女子の間とて、物語長きに、店の蝋燭流れ盡むとしたり。さて連れ立ちて、其人の家の戸口までおくり行くに、街の上はいふもさらなり、「コルソオ」の大道さへ物寂しう見えぬ。されど美しき水盤を築きたるピアツツア、ヂ、トレヰイ[#「ピアツツア、ヂ、トレヰイ」に二重傍線]に曲り出でしときは、又賑はしきさま前の如し。
 こゝに古き殿づくりあり。意《こゝろ》なく投げ疊《かさ》ねたらむやうに見ゆる、礎《いしずゑ》の間より、水流れ落ちて、月は恰
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