したるならむといひき。これより後、われは怪しき夢をみること頻なりき。そを母上に語れば、母上は又友なる女どもに傳へ給ひき。そが中には、われまことにさる夢を見しにはあらねど、見きと詐《いつは》りて語りしもありき。これによりて、我を神のおん子なりとする、人々の惑は、日にけに深くなりまさりぬ。
さる程に嬉しき聖誕祭は近づきぬ。つねは山住ひする牧者の笛ふき(ピツフエラリ)となりたるが、短き外套着て、紐あまた下げ、尖りたる帽を戴き、聖母の像ある家ごとに音信《おとづ》れ來て、救世主の誕《うま》れ給ひしは今ぞ、と笛の音に知らせありきぬ。この單調にして悲しげなる聲を聞きて、我は朝な/\覺《さ》むるが常となりぬ。覺むれば説教の稽古す。おほよそ聖誕日と新年との間には、「サンタ、マリア、アラチエリ」の寺なる基督《キリスト》の像のみまへにて、童男童女の説教あること、年ごとの例なるが、我はことし其一人に當りたるなり。
吾齡《わがよはひ》は甫《はじ》めて九つなるに、かしこにて説教せむこと、いとめでたき事なりとて、歡びあふは、母上、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]、我の三人のみかは。わがありあふ卓の上に登りて、一たびさらへ聞かせたるを聞きし、畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]もこよなうめでたがりぬ。さて其日になりければ、寺のうちなる卓の上に押しあげられぬ。我家のとは違ひて、この卓には毯《かも》を被ひたり。われはよその子供の如く、諳《そらん》じたるまゝの説教をなしき。聖母の心《むね》より血汐出でたる、穉き基督のめでたさなど、説教のたねなりき。我順番になりて、衆人に仰ぎ見られしとき、我胸跳りしは、恐ろしさゆゑにはあらで、喜ばしさのためなりき。これ迄の小兒の中にて、尤も人々の氣に入りしもの、即ち我なること疑なかりき。さるをわが後に、卓の上に立たせられたるは、小き女の子なるが、その言ふべからず優しき姿、驚くべきまでしほらしき顏つき、調《しらべ》清き樂に似たる聲音《こわね》に、人々これぞ神のみつかひなるべき、とさゝやきぬ。母上は、我子に優る子はあらじ、といはまほしう思ひ給ひけむが、これさへ聲高く、あの女の子の贄卓に畫ける神のみつかひに似たることよ、とのたまひき。母上は我に向ひて、かの女子の怪しく濃き目の色、鴉青《からすば》いろの髮、をさなくて又|怜悧《さかし》げなる顏、美しき紅葉《もみぢ》のや
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