ニ過ぎ行きぬ。新に來り加はる人もあり、又もとより居たる人の去りていづくにか往けるもあり。ある日彼媼さへ、ひねもす出でゝ歸らざりしかば、我は賊の一人とこの山寨《さんさい》の留守することゝなりぬ。この男は年二十の上を一つばかりも超えたるならん。顏は卑しげなるものから、美しき髮長く肩に掛かり、その目《ま》なざしには、常にいと憂はしげなる色見えて、をり/\は又手負ひたる獸などの如きおそろしき氣色《けしき》現るゝことあり。我と此男とは暫し對《むか》ひ坐して語を交ふることなく、男は手を額に加へて物案ずるさまなりしが、忽ち頭を擧げて我面をまもりたり。

   花ぬすびと

 若者はふと思ひ付きたる如く。おん身は物讀むことを能くし給ふならん。此卷の中なる祈誓の歌一つ讀みて聞せ給へとて、懷より小き讚美歌集一卷取出でたり。われいと易き程の事なりとて、讀み初めしに、若者の黒き瞳子《ひとみ》には、信心の色いと深く映りぬ。暫しありて若者我手を握りて云ふやう。いかなれば汝は復た此山を出でんとするか。人情の詐《いつはり》多きは、山里も都大路《みやこおほぢ》も殊なることなけれど、山里は爽かに涼しき風吹きて、住む人の少きこそめでたけれ。汝はアリチア[#「アリチア」に二重傍線]の婚禮とサヱルリ[#「サヱルリ」に傍線]侯との昔がたりを知るならん。壻《むこ》は卑しき農夫なりき。婦《よめ》は貧しき家の子ながら、美しき少女《をとめ》なりき。侯爵の殿は婚禮の筵《むしろ》にて新婦が踊の相手となり、宵の間にしばし花園に出でよと誘ひ給へり。壻この約を婦に聞きて、婦の衣裳を纏ひ、婦の面紗《おもぎぬ》を被りて出でぬ。好くこそ來つれと引き寄せ給ふ殿の胸には、匕首《あひくち》の刃深く刺されぬ。これは昔がたりなり。われも此の如き貴人を知りたり。そは某《なにがし》といふ伯爵の殿なりき。又此の如き壻を知りたり。唯だ婦は此の如く打明けて物言ふ性《さが》ならねば、新枕《にひまくら》の樂しさを殿に讓りて、おのれは新佛《しんぼとけ》の通夜することゝなりぬ。刃の詐《いつはり》多き胸を貫きし時、膚《はだへ》は雪の如くかゞやきぬとぞ語りし。
 わが心中には畏怖と憐愍と交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》起りぬ。われは詞はなくて、若者の面を打まもりしに、若者又云ふやう。彼も一時なり。此も一時なり。われを女の肌知らぬものと思ひ給ふな。英吉
前へ 次へ
全337ページ中150ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング