黷驍ツいでに、われはこたび身を以て逃れたる事のもとさへ、包み藏《かく》さずして告げぬ。唯だアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上をば少しも言はざりき。さてわが物語の終は、この上殊なる望なければ、この身を官府に引き渡して、襃美にても受け給へといふことなりき。
 一人の男のいはく。さりとては珍らしき望なるかな。想ふに羅馬市には、黄金《こがね》の耳環《みゝわ》を典して、客人を贖《あがな》ひ取ることを吝《をし》まざる人あるならん。拿破里《ナポリ》の旅稼《たびかせぎ》は、その後の事とし給はんも妨《さまたげ》あらじ。さはあれ強ひて直ちに拿破里に往かんとならば、あぶなげなく彊《さかひ》を越させ申さんことも、亦我等の手中に在り。留りて此樂園に居らんとならば、それも好し。こゝに在るは善き人々なるをば、客人も夙《と》く悟り給ひしならん。されど此等の事思ひ定め給はんには、先づ快く一夜の勞を醫《いや》し給ふに若かず。こゝに佳《よ》き牀《とこ》あり。それのみならず、來歴ある好き衾《ふすま》をも借し參らせん。巽風《シロツコ》吹く頃の夕立をも、雪ふゞきをも凌《しの》ぎし衾ぞとて、壁よりはづして投げ掛くるは、褐色なる大外套なり。牀といふは卓の一端の地上に敷ける藁蓆《わらむしろ》なり。その男は何やらん一座のものに言置き、「ヂツセンチイ、オオ、ミア、ベツチイナ」(降《お》り來よ、やよ、我戀人)と俚歌《ひなうた》口ずさみて出行きぬ。

   血書

 われは眠ることを期せずして、身を藁蓆の上に僵《たふ》しゝに、前《さき》の日よりの恐ろしき經歴は魘夢《えんむ》の如く我心を劫《おびやか》し來りぬ。されど氣疲れ力衰へたればにや目※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》おのづから合ひ、いつとは知らず深き眠に入りて、終日復た覺むることなかりき。
 醒めたる時は心地|爽《さはや》かになりて、前に心身を苦めつる事ども、唯だ是れ一場の夢かと思はるゝ程なりき。然はれそは一瞬の間にして、身の在るところを顧み、四邊なる男等の蹙《しか》みたる顏付を見るに及びては、我魘夢の儼然として動《うごか》すべからざる事實なるを認めざることを得ざりき。
 一客あり。灰色の外套を偏肩に引掛け、腰に拳銃を帶びたるが、馬に騎《の》りたる如く長椅に跨《またが》りて、男等と語れり。穹窿の隅の方には、彼の雜種《あひのこ》いろしたる老女
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