愉快にはなすことが度々あつた。「今の若いやつの運動見てられへん。危かしうて」と云つた。さう云ふ風に語つたり毎日々々が安穏に暮せると、若い連中の組織的な力に嫌悪の念さへ湧いて来るのだ。これは不思議な現象であつた。――あの遊びに来る若い男が虫なのであらうか。――彼は考へる。
ちやうどそんな時に煉瓦塀にもたれて、その虫である若い男がウメ子が工場から出て来るのを待つてゐた。彼らは色々と話すことがあつた。燐寸会社の古い頽《くづ》れた煉瓦塀に沿ひながら、彼らは歩いて行つた。まだ寒い頃だ。風が吹いて、ウメ子の黒い肩掛がヒラヒラした。話のとぎれた時、突然、ウメ子は云つた。
「これ逢ひ引き云ふもんちがふ? わてら何やら活動にあるやうな恋人どうし見たいなわ」
それから二人は若々しく笑ひだした。その夜、晩《おそ》く、彼女は帰つて来た。頬ぺたと右肩に糊が冷たさうに、硬ばつてくつついてゐた。手をもむとボリボリと糊が垢《あか》と一しよに黒くなつてこぼれた。
――ポスターを張りに行つた二人であつた。議会解散要求のポスターは風がきついので張りにくかつた。糊はいくども吹き離された。若者は外套《ぐわいたう》をひろげて風を防いだ。小さいウメ子はポスターと一しよに、それに包まれた。
「ほんまに、わてら恋人どうし見たいなわ。恋てきつとこんなものやろな」と云つた。
8
夏近く、父親はことごとに娘にあたつた。彼はあのストライキの思ひ出だけに生きてゐた。遊びに来る若者が、ウメ子を悪い方に誘惑してゐるやうな気がしてならなかつた。悪い方――あの最近の労働運動のやり方を意味してゐた。をかしい程、反動し、老いが表情に現れ出した仙吉の顔を、彼女はヂツと見た。
「そんなことあれしまへん。あれしまへん」
打消さねば、川一つのあちらからよく訪ねて来る藤本にどんなことを父が云ふか、分らない。ウメ子はそんな心づかひをしなければならないのが情なかつた。反逆の呂律《ろれつ》の手ほどきをしてくれたのはこの父ではなかつたか。その頃まかれた種は芽生えようとしてゐる。燐寸工場で刷板部《すりはんぶ》の勇敢な女工の組織を彼女が中心になつて始めてゐたのだ。
暮れ方の色が濃くなつて来た。溝川はブツブツと泡立ち、空はドンヨリと曇つてゐた。仙吉が店をしまつて帰らうとすると依頼人が来た。建築の届書を書いてやり、一枚九銭の要求をした。依頼人はのんきにも判を忘れてゐた。彼は慌《あわ》てて取りに行つた。仙吉は店じまひをし帰るしたくをした。机の上に白い届書をのせてボンヤリと依頼人の帰つて来るのを待つてゐた。軒に蚊がうなつてゐる。その時、川向うの南の方から小柄な女が背広二人にひきずられるやうにやつて来た。無感覚に眺めてゐた仙吉の眼は突然ギラとして、腰をあげた。不思議な光景であつた。ウメ子がスパイに捕まつて! 彼女は川一つ越して、父の立姿を認めた。そして一つおじぎをし、警察の中に消えた。彼はキヨトンとして了つた。彼の本心は娘は無キズ者にして置きたかつたのだ。だが、虫がついた。虫が――「お頼みします。お頼みします」
その時、帰つて来た依頼人は彼のうしろから判をさし出しながら幾度も繰りかへして云つた。
[#地から1字上げ](一九二九年九月十九日、朝。)
底本:「日本文学全集44 武田麟太郎 島木健作 織田作之助 集」筑摩書房
1970(昭和45)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:ピコリン
校正:小林繁雄
2006年7月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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