の二つの副業が、この主人の全体としては陰欝な表情のうちで、眼だけを生き生きとしたものにしてゐる。赤い瞳であるが、これを上眼使ひにしよつちゆう動かす時に、白眼がチラチラと冷く光るのである。調査に出かける場合にはどんな遠いところでも自転車に乗つて行き、脂じみた朴歯《ほおば》の下駄で鈍重に動作し、ぽつりぽつりともの云つて口数も少い。ところが、家に帰つて来ると、実にキビキビとして、一階から三階の間を馳《か》け廻り、部屋々々の様子をうかがつて、逢ふ人ごとに如才なく弁舌を振ふのである。――これは、彼のもう一つの副業がしからしめてゐるのであつて、すでに想像できるやうに、彼の三階建の家屋はアパートとして経営されてゐるのである。
 三階は、細君がお神楽《かぐら》三階は縁起が悪いと反対したのを押切つて、あとから建て増されたものだ。このことは主人の金の貯つて来たのを語ると共に、我々が墓地側から望む時、この家が傾いてゐるやうに見え、また、土の焜炉《こんろ》や瀬戸引の洗面器、時には枯れた鉢植の置かれてある部屋々々の窓が規則正しく配列されてなくて、大小三つある物干台と一しよに雑然と乱暴に積み重ねたやうな印象を与へられる原因をなしてゐる。
 アパートと云つても――いや、そんな何となく小綺麗で、設備のよくととのつた西洋くさい貸部屋を意味する言葉を使つてはいけないだらう。何故かと云へば、卒塔婆《そとば》の破《や》れ垣《がき》の横を通つてその入口に達すると「あづまアバート[#「アバート」に傍点]」と書いた木札がかかつてゐて、ちやんと、アパートではないとことわつてゐる。
 そこで、このアパートが普通の下宿屋|乃至《ないし》木賃宿とそんなにちがつたものでないと云つても、あやしむことなく理解されるだらう。それでも、下の入口の下駄箱の側にはスリッパが――アパートの主人はこれをスレッパと呼んでゐる――乱雑にぬぎすてられてあるし、廊下の両側の部屋には、褐色のワニス塗りのドアがついてゐ、中からも外からも鍵がかけられるやうになつてゐて、幾分西洋くさいアパートに近づかうとはしてゐる。けれども一旦部屋にはひると、部屋の境目がどう云ふわけか、襖《ふすま》やガラス障子でくぎられてゐるので――もちろん、これらは釘で打ちつけられてあけ閉《た》てできぬやうにはしてあるが、お互ひの生活は半ば丸出しと云つてよいのである。畳も壁も、それから乾からびてしよつちゆう割れる音のしてゐる柱も、人間の色んな液汁が染みこんでゐて汚く悪臭を発散してゐる。表通に自動車が警笛をならして走るたびに部屋の振動するのは云ふまでもなく、べとべとしてゐて足裏に埃のいやにくつつく廊下や階段を誰かが歩いただけで、部屋全体が響けるのである。
 油虫の多い炊事場は、二階階段の上《あが》り端《はな》に、便所と隣りあつてあるが、流しもとは狭くて水道栓は一つ、ガス焜炉は二つしかないので、支度時には混雑して、立つて空くのを待つてゐなければならない。
 こんな不潔で不便でも、貸賃が安く、交通に都合がよいので、大抵の部屋はふさがつてゐるやうだ。六畳が十円で、ガス、水道、電燈料が一円五十銭――合計十一円五十銭の前家賃になつてゐる。多くは浅草公園に職を持つてゐるのであるが、彼らの借室人としての性質はどんなものであるか。
 彼らはその家賃が部屋の設備からして高いと考へてゐる。できれば値下すべきであり、殊に最近の不景気で以前と同じ金を取るのはひどいと考へる。そして、そのことは一人一人で交渉するよりも、全体としてアパートの主人に談合すべきであると考へる。――ある夜、多くの者たちは十二時すぎまで仕事があるので、一時頃から三時前までもかかつて、協議して一円の値下を要求することに決めた。そして翌日は晦日《みそか》になつてゐるのだが、誰も払はずに、交渉を引受けた小肥りの映画説明者の返答を待つことになつた。ところが、翌朝早く、主人は部屋々々を起して廻つて部屋代を取立てた。誰か昨夜のことを彼に告げたものがあつたのだらうが、皆も申合せを忘れたやうに、主人の剣幕に恐れをなして払ふのであつた。そのくせ、お互ひにはそんなことをしたとは顔色にも出さず、知らぬ顔でゐた。――朝寝坊の説明者は次から次へとひつきりなしに電話に呼出されるので出て見ると、決定を裏切つたものたちが、実は昨夜あの仲間にはひると云つたが、あの時はすでに家賃は払つてあつたんで、と云つた風な見え透いた言訳を出先きからするのであつた。そこで説明者も独りでは力もないし、主人に憎まれても仕方がないと、彼も亦《また》、定額を支払つたのである。
 ――そんな彼らであるので、共同生活の訓練は少しもない。掃除番が順次に廻つてくるのであるが、炊事場でも、それから夏を除いては隔日に立てられる風呂でも、出来るだけ汚くしようとしてゐる
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング