として警戒の必要もないし、放置してある。毎日どこへ出かけるのか、古い友だちのつとめてゐる官署を訪ねて、普通の調子で話をして来るらしい。政界勢力関係についての内幕を聞いて来たり、ファッシズムの進行状態、戦争や満洲の問題のニュースを噛《かじ》つて来て、大声で自分たちに披露する。
「――そんなことあまりしやべりちらしてゐると引張られるよ」
気の変な者に注意しても仕方がないのだが、つい自分が云ふと、さう云へば、角の交番の巡査は確に自分を厳重に監視してゐる、きのふも前を歩いてゐるとじつと鋭い眼を離さなかつた、何故そんなに見つめる、と呶鳴《どな》つてやつたと述べる。気味が悪くてたまらん、どこかええとこへ宿がへして了はう、と云ひ出せばまた執拗《しつこ》くなつて困るのだ。同期の連中が年月と共に次第に昇進した地位について行くのが、彼の最も不平とするところで、今に見い、頭さへ治《なほ》つたらと口癖になつてゐた。日本が俺のやうな人物を容《い》れなければ、満洲国が迎へてくれると、出入りに兵隊が喇叭《らつぱ》を吹くやうな広大な邸宅に住み、権勢の限りをつくすやうな要人の生活を夢見てゐた。そんな大言壮語したあとではきつと、頭が痛いと苦しがつて両手で顳※[#「需」+「頁」、P98−上段5]《こめかみ》を揉むのが例になつてゐる。莫迦《ばか》なことである。
彼がかつ子に惚れてゐるのを自分が知つたのは最近だ。彼女の働いてゐる店へ度々現れるらしい。
「――よく云つて頂戴、のつそり入つて来て、かつ子さんここへいらつしやいと、まるで自分のものみたいに呼びつけて離さないんでせう、あんたは、清治に本当に惚れてゐますか、つてあの腐つた魚みたいな眼でのぞいて、本心を云つて下さい、もしかして、と思ひ入れよろしくあつて、僕は悩んでる、と吐息をつくのよ、他のお客さまの手前もあるし、もう来ないやうに云つて頂戴、来ちやいけませんて、私がづけづけ云ふと、僕を避けようとするあんたのその苦しい気持はよく分る、つてわけなのよ、笑ひも出来ないぢやないの、誰が一体お小遣をあげるのか知らないけど、お店ぢやそりやとても豪遊よ、見栄を張つて、高いものばかり取つて飲んだり食つたりしてゐるわ、お金なんぞ渡さないでよ」
兄貴には外出の場合にもほんの煙草銭しか与へてゐなかつた。それも出来るだけ現品で渡すことにしてゐたのだが、彼は旧友たちの間を廻つて、そんな遊蕩費《いうたうひ》を捻出して来るのだらうと、自分はのんきな彼が羨しくなつた。かつ子のお店と云ふのは、珈琲《コーヒー》店でも酒場でもないその中途を行つた茶房と称するもので、銀座で盛大に経営してゐた。茶房なんていやな名前だ。高い店なので、自分なぞは余り行けない。
兄は大体が身綺麗にしたがる性質で、用もないから朝から湯で時間をつぶしていつまでも洗つた上に、肌に直接つけるものと来ては、垢の跡ひとつも容赦《ようしや》しなかつた。うるさく、洗濯をする母親を叱りつけ、衛生観念の薄弱さを罵《ののし》るのだ。手なぞも大袈裟に云へば乾く暇もない位、絶えず洗つてゐなければ気がすまない。ああした精神病者の特徴なんですかね。それがいよいよお洒落《しやれ》になつて、かつ子の化粧料から自分用のを盗み取つて、鏡に向つてゐると云ふ始末である。
「――いやにめかすぢやないか、それでかつ子の店へ出かけるのかね」
彼女から注意のあつた後、自分は大人気もなくそんな皮肉を云つた。彼は狼狽して可哀さうであつた。赤くなつて、突然のやうに、俺は結婚したいと考へてゐる、と云ふのだ。
「――へえ、誰とだね、兄貴の女房にならうと云ふ女が現れたかね」
結婚したい、とはこれまでにも口にしなかつたわけではない。彼は自分が早くかつ子と一しよになつたのが不満であつた。年長の兄を差置いてと云ふ理由から、父が生きとつたら、こんな順序を心得ぬ淫《みだ》らな真似はさせん、とよく云つた。
「――まだはつきりしたことは発表出来ん、しかし、時日の問題ぢや、僕は婚約時代の気持でゐる、それよりも、気いつけた方がええぞ、かつ子は、僕が店へ行くのをいやがりよるが、ありや、僕が煙たいんぢやろ、仇《あだ》し男《をとこ》との秘密を見られるのを恐がつとるのぢや、ぼやぼやしとると、寝とられて了ふぞ」
それ以来、彼はかつ子の不貞を自分に思ひ込ませようと熱心になつてゐる。けさも、彼女が彼をまるで相手にせず、早番なので急いで出かけたあとでは、あれは男と約束してよる、確にまちがひない、尾行して現場を押へてやろか、と口惜しがつてゐた。
「――何でまたあんな浮気な店に出した、ちやんとええとこにつとめてをつたのに」
さう云はれて見ればさうも思へる。徴兵保険会社にゐたのを、れいの茶房が出来て、月給が十五円ばかりいいと聞いたので、友だちの紹介で入れて貰つたの
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