に出て号泣し、前に置いた箱の中へ、一銭の喜捨を乞ふ少年にちがひなかつた。
 彼は今の女に、不景気なと罵つた手前、自分が如何に景気がよいかを、誇り出すのであつた。――
「こなひだもなアイノリ(二円)になつた日があつたんやぞ――みんなオツチョコチョイで、オケテしもたけどな」
 オツチョコチョイとは、あすこで、ラッコの襟巻をし、金縁めがねをかけた冷い眼の男が開いてゐるやうな、路上の賭博であると、彼はつけ加へた。
「へえ」と、小説家は感心してやらねばならなかつた。
「五十円もウネツテたまつたら、病院に入つてこまそと思ふんやけど」
「どこが病気や」
「どこが、悪いのかなア」と他人事《ひとごと》のやうに少年は云ふと、
「ほんまに、はよ、治しときや、手おくれになつてしもたら、あかんさかいな」と、気がよささうな煮込屋の主人は、横から忠告するのである。
「うん、さう思うてんねけどな」と、少年は、一銭ばくちで五十円を勝ち貯める日がなかなか来ぬことを考へてゐるやうな眼つきをし、それから――「おつさん、モヤ一本頼む」と云ふと、「おいな」と、主人は胃散の大きな罐の中から、吸口をちやんとつけたバットを取出して、一銭で売つてやるのであつた。

 小説家はその夜、難波で、新聞記者某氏に出逢ひ、釜ケ崎のはなしをすると、某氏は先日もこんなことがあつた、と語るのであつた。――夜更けて、あすこの側にある警察へ、女の行路病者が担込《かつぎこ》まれて来た、医者に見せると重い肋膜で、すでに手おくれになつてゐ、遂に死亡して了つたが、その次の日、彼女を扶《たす》けて連れて来た男が来て、一度面会させてくれと云ふので、すでに、こと切れたと云ふと、わつと男泣きに泣き、余りの愁嘆に、どうしてそんなに悲しむか怪しまれ、それでは何か知合のものででもあつたかとの訊問に対して、実は、それは彼の女房であつた、と告白したのである。彼は釜ケ崎の木賃宿に住んで磨き砂売りをやつてゐるが、もちろん、稼ぎは思ふやうには行かず、それに女房が病気になつて寝て了ひ、日に日に重ることが眼に見えつつも、施す手がなく医者も相手にしてくれず、瀕死の彼女は苦悶するし――遂に思ひ余つて、女房を行路病者にしたてたと云ふわけであつた。
 新聞記者某氏は「ルンペンの夫は悲し、と云ふ物語や、どや、小説にならんか」と云つた。
 小説家は狡猾《かうくわつ》に笑つて何とも答へず、家へ戻つたが、それと彼の昨夜来の経験とを織りまぜ、小説に作りあげて見ようと、決心した。そこで、手許を探して、市役所から出てゐる「大阪市不良住宅地区沿革」と云ふのを参考に読みはじめたのである。
 ――現在の釜ケ崎密集地域も明治三十五年頃までは、僅かに紀州街道に沿うて、旅人相手の八軒長屋が存在したるに過ぎない。
 その後、東区の野田某氏が始めて、労働者向きの低廉なる住宅を建設して、労働者を収容したるが、尚当時に於ても依然として、百軒足らずの一寒村に過ぎなかつた。
 以後、大阪市の発展に伴ひて、下寺町広田町方面に巣食つてゐた細民は次第に追ひ出されて南下し、安住の地を求め、期せずして、集団したるが、現在の釜ケ崎にして、そこに純長町細民部落を形式するに到り、下級労働者、無頼《ぶらい》の徒、無職者は激増し、街道筋に存在する木賃宿は各地より集まる各種の行商人遊芸人等の巣窟となり、附近一帯の住民の生活に甚だしい悪影響を与へつつある。
 児童の大半は就学せず、すでに就学せるものも、三四年の課程を終へれば登校せず、金銭を賭して遊ぶ子供を所々に見受ける。
 下水の施設なく不潔なること言語を絶するものがある。表側に於ては左程にも思はれぬとも、裏側に於ては、甚だしいものがある。上水の施設もないところ多く、井戸水を使用してゐる。――云々。
(昭和八年三月)



底本:「現代文学大系44」筑摩書房
入力:山根鋭二
校正:伊藤時也
1999年12月15日公開
2000年11月11日修正
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