寝かせてから、高くつつた黄色い電燈の光を裏から受けてゐるので埃の浮いて見える歪《いび》つな日本髪の頭を傾け、彼の様子を――今にも泣出さんばかりのその表情を、けげんさうに、打守るのであつた。もちろん彼女には訳はわからず、この何と云ふ気弱な男であらう、淫売婦に有無を云はさず乱暴に引張りあげられたのを、どぎもを抜かれ、後悔してゐるのかと、考へたかも知れぬ。そこで彼女も呆気《あつけ》にとられ、ぽかんとした顔で、寒さに歯をガチガチと打鳴らしながら、
「すんまへん」と、云つた。――それから、気の毒さうに、彼の方へ掌を差出したのである。
小説家は、彼がこの家で生れたこと、あすこに見えるあの落書こそは彼の手になるものであること、しかも、思ひ出の積つてゐるその建物は、今は淫売婦の仕事場になつてゐること――それらを、彼女の前に語り出したくなつたほど、感傷に溺れきつてゐた故、女の請求をはねつけるだけの勇気もなく、一体何ほど与へればよいか、と細い声で質問するのであつた。
「すんまへん」と、また彼女はあやまるやうに云ひ、――「五十銭やつとくなはれ」と態度は優しく嘆願するのであるが、その精神には、今にも彼の懐中に手をさし入れるばかりの執念深さがあつた。
彼が、どうかして母や弟妹をこの窮乏から救ひ出したいものと、来る日も来る日も考へつめてゐたこの六畳の部屋は、薄い雨戸を真中に立てて、二つに区切られてゐ、あちら側にも人の動く気配《けはひ》があつたが、ちやうどその時、その中から口争ひをはじめた男と女の声が聞えて来たのである。
――女の声がののしるには「そんなあほらしいことできるかいな――そんなことはなア、十銭淫売のとこでも云うとくなはれ、うちはちとちがふ!」と、云ひ、見そこなつては困る、あほたんめと、附け加へるのであつた。――小説家は、その言葉に気をとられながら、それでは隣りにゐる女も五十銭の口なのであらう、だから、十銭のものよりも格式を以て客に臨んでゐると云ふわけであらうと考へ、妙なところに、――人はどん底まで来ても、まだこれより卑しい下のものが存在するのだと自分を慰めて、高い心を失はないでゐることに、――感心してゐた。――しかし、相手の客は、嗄《しはが》れた声から察するとかなりの年配らしいが、なかなか承知しないと見え、争ひは益々烈しくなつて、果は彼らの身体が雨戸にぶつつかり、今にもその頼り
前へ
次へ
全20ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング