ともだと云ふ気がしないではなかつた、どうせ、飲み屋のことだから、そこで働く女の一人一人が俺が俺こそが客を持つてゐるとの自惚《うぬぼれ》がなくてはかなはないとだけではない、おきよにはおきよの古い思ひ出があつたはずだ、――おしげはまだ富士小学校に通つてゐる頃から、よくおきよの噂を聞いたものであつた、「たむら」のきよちやんと云ふ名が屡々《しばしば》男たちの唇に乗つた、一時は浅草での二三人ゐる評判娘のうちに数へられて、小さなおしげなぞも何とはなしに憧れの心持を抱いてゐた、公園へ遊びに来ては友だちと牒《しめ》しあはせて、その頃はまだ今のやうに店をひろげてゐなかつた「たむら」の前をうろうろして、彼女の姿をひとめでも垣間《かいま》見ようとしたこともある、あたいなんぞ、あとからついて行つた、あたいの顔を見て、笑つてたよなぞと云ふ友だちもあつたほどだ、美貌で、綺麗な着物を着、男たちに騒がれて、毎夜のんきに酒間のあつせんをしてゐる、おしげなぞの理想であつた、実際、以前はおきよをはりに客は来てゐた、評判娘と云ふ名前だけで通ふのもあつたらうし、毎夜うるさく歓心を得ようとしてゐるのもあつた、唯一度二度のお義理の酌に、すがるやうに下手な常談口をきいて、だらしなく悦んで笑つてるのもきつと見られた。
 おきよはその白い額やつんと高い鼻を尚一そう電燈の下で気取らせて、きれの長い眼をやすやすと動かさず、ぢつとどつか中有《ちゆうう》を見てゐるのが癖であつた、それでもその傲慢《がうまん》なのさへもある時期には客に魅力であつたらしかつた、しかし、そんな時期はもうすぎ去つてゐた、おしげが去年ある宿屋に奉公してゐたのが、「たむら」へ移ると聞いてどんなにうれしかつたかも知れない、あすこのきよちやんと一しよに住むと思つただけでぞくぞくして、何とはなく肩幅が広く昔の友だちに手紙で報《し》らせてやりたい位であつた、母親が悪い条件で前借をしたのもあまり苦にならなかつた、お目見得に来た時も、特別丁寧におきよには挨拶して、うつとりと眺めてゐた、ところがここへ来てからは次第に幻滅がして、これがあの心躍らせてゐたおきよちやんかと妙な気のすることもあつた、主人の妹だからと威張るのならまだいい、無精たらしくてけちんぼで、口汚く小言ばかり云つてうるさかつた、ひやつとするほど、惨酷な言葉を召使や出入りの商人にあびせかけた、底意地の悪さには泣かされた、――それよりも、彼女の店での人気がうすれてゐるのには、おしげも驚いたのだ、妹のおとしが代つてみんなにちやほやされてゐた、兄嫁のおつねも色つぽくて受けがよかつた、おしげだつて気性を買はれて何とか彼《か》とか云ひ寄る客も少くはない、かつては客と云ふ客が、おきよのために高い酒を飲んだのであらうが、近頃は、他の女たちの方がわいわいと云はれて、おきよはますます硬い表情でとり残されると云った工合であつた、不健康な生活のために二十五だと云ふのに、肌理《きめ》が荒《すさ》んで、どことなく頽《くづ》れて来た容貌がすでに男を惹《ひ》かなくなつただけではなく、歪《いび》つな性格がさうなるとますます露骨になつて不愉快であるらしかつた、それでも店へ出ることはもとよりやめなかつた、いつまでも「たむら」の看板娘であると信じてゐたかつた、わざとまたそのやうな振舞をするので無理が眼立ち、反感と滑稽さを同時におぼえるのであつた。それでも何かの工合で、ひよつと彼女の表情にも寂しい翳《かげ》のさすことがある、酔つ払ひの声に女の嬌笑《けうせう》がいりみだれてゐ、おしげ自身もいい気になつてお銚子の代りを取りに立つと、ふと料理場の入口でおきよが青白いまでに哀しげな風にこちらの賑かさを見てゐるのだ、何かにつき当つたやうに、おしげははつとしたがその時ヘもう、おきよはいつもの自分を恃《たの》んだうそぶいた冷さに戻つてゐた、どうかしてもう一度人気をとり戻したいと焦つてゐるのは、気を変へたやうに愛嬌をつくつて客席へ出て行くのでも察しられた、もしも、彼女に幾分気があつたが、相手にされないのでいつか遠ざかつてゐた昔馴染《むかしなじみ》の客がなつかしげに現れたりすると、彼女はすつかり勢づいて声をはずませるのであつた、まア、おめづらしい、と以前はそんなにべたべたしなかつたであらうに、側へくつついて、やつぱり忘れないで来てくれたのねえと、大声で誰の耳にも聞えるやうに、ほら、あの人はどうした、いつも一人でべらべらしやべつて私たちを大笑ひさせてさ、そのくせ、自分はちつともをかしくないつて風で、散々笑はせたあとは、むつつりと苦が虫を噛みつぶしてゐた人さ、なぞと知人をあげて消息をたづねたりした、私にラヴレター呉れた、足の悪い絵の先生だつた人もゐたぢやないの、とわざとしつこく云つたりした、ああ、あれか、あいつは、なぞとその男も
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