しさうに泣きはじめた。
「いけないね、秀ちやんは」と、おつねが二人の横に立つて、――「うちの子を苛《いぢ》めると承知しないから、さア、仲直りなさいよ」
おしげは板場へすつ込んで、泣けるだけ泣いてゐた、そつと、肩を叩くものがゐるので、濡れた頬もかまはずにあげると、旦那であつた、彼は、あとで可愛がつてやるから、子供みたいに泣くのはおよし、とえり首に手を廻した。
いや、と彼女はもぎ取るやうにした。袖で涙を拭いて、ぢつと立つてゐたが、役者のやうににこにこと表情を作つて見た、出来たと自信がつくと、それをマスクのやうにかけて出て、
「ごめんなさいね」と、丁寧に秀一にあやまつた。
「ごめんね、――返事してよ」
「うん」
――おしげは、さうだ、秀ちやんとお酉様へお詣りしようと思ひついた、豊太郎にも、おきよにも面当《つらあ》てになると考へた。
「かんばんまで遊んでるでしよ」
「うん――いいよ」
「それからね、仁王門の側で待つててくれない」
「――待つててもいいけど、なぜ」
「お酉さま」
「ああ、――今年は三の酉もあるんだね、不景気、火事多しか」
「いやなの」
「誰もいやと云ひやしない」
すつかり晴れあがつてゐた。おしげは、豊太郎に早めに暇を貰つて、着がへるとさつさと新しいよそ行きの下駄を出した。
「花屋敷の表だよ、いいね」と、しつこく豊太郎は小声で云つた。
うなづいて、仁王門まで駈けて行くと、酔つ払つた秀一は、門柱と押しつくらをしてゐた。
「――滑稽ね、腕押ししてたの」
「ああ」
米久《よねきう》通りへかかる時、おしげは暗がりを見すかすやうに、小腰をかがめて、花屋敷の方へ眼をやつた。
「何してるんだ」
「知つた人がゐるやうな気がしたもんだから」
十二時をすぎたばかりの鷲神社は、初酉のお札を貰はうとする人たちで、身動きも出来ないほど、混雑してゐた、二人はその中に捲き込まれたが、しつかり掴まつといでと、秀一は手を握つてくれた、大きな人群れはまるで蛇のやうにうねつて、ともすればおしげは浚《さら》はれさうになつた。
「秀ちやん、下駄がどつかへいつちやつたよ」
「――見つかりやしないよ、――」
(昭和十年十二月)
底本:「現代文学大系44」筑摩書房
入力:山根鋭二
校正:伊藤時也
1999年10月19日公開
1999年10月23日修正
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