二言目には、うちの母《か》あちやんが、と云ふのが口癖で、心の底からおはまを愛してゐる彼女は、さうなると、いよいよ新吉に憎悪の念を集めた、どうして母あちやんみたいないい女があんな下らない男に惚れてるんだらう、別れちまへばいいのにと、彼女は母親を独り占めにしたくなつた、せめて、もう少しお父つあんと呼ぶだけの価値のある人間だつたら、どれだけ肩身が広いだらう、定休日にもすすんで、象潟町《きさかたまち》の足袋屋の二階――おはまが間借りをしてゐるところへ戻つて、延び延びと骨休みもし、あまつたれも出来ようと情なかつた、どうかして、新吉と別れさせる方法がないものかと考へてゐた。
土曜日の十五日で、店は転手古舞《てんてこまひ》の忙しさであつた、おまけにおつねが留守のため、手が足りなく、ぼうつとして九時すぎ料理場で立つたままおそい夕飯を食べてゐると、帳場にゐた豊太郎が眼顔で、早く二階へ昇つて了へと教へてゐるのだ、え、と聞きかへして、はつとした、店の方から、新吉の乱暴な言葉が伝つて来た。
「いけない、隠れて」と、旦那が云ふので、食ひさしの茶碗を棚へ置き、足音を忍ばせて、階段を昇つた、上は彼女たちの寝室になつてゐた。
響いて来る新吉の怒り声に、ああ、いやだ、いやだ、とおしげは小娘らしい感傷で、私ほど不幸せな女はないと悩むのであつた。頭が痛いほど口惜しくつて、いつそ、下りて行き、お前は一体何だ、何をうるさく因縁をつけに来やがつたんだと呶鳴りかへしてやらうかと立つたり坐つたりしてゐた、しかし、それもここの家の迷惑を考へては、よほどのことにと畳を蹴立てて走り出しさうになるのをひかへねばならなかつた。
ざアざアと屋根を叩く雨の音が彼女を落ちつかせた、窓を開くと、さすが冷気が流れてゐて、微かに煙るアーク燈の光りのあちらに五重の塔がくすんだ影を陰欝に浮き立たせてゐた。
朝からの気疲れがおしげの身体を包んだ、新吉なんか怖かないやと思つてゐるうちに、そこに凭《もた》れてほんの暫くまどろんだ。
いい加減の頃合を見計つて、おしげは階下の様子をうかがつた、新吉はもうゐないらしいので、そつと下りた、旦那をはじめ、雇人たちに、すみませんを繰りかへして謝るのが辛かつた、おきよやおとしが、しげちやんの母あちやんも大へんな御亭主を持つてるのね、と皮肉を浴びせた。
女たちは店をしまつて、お湯へ行つた、おしげだけ
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