してはゐられない。折角だが、失敬するぜ。」
暫くして兵野が、そんなことを呟きながら、むくむくと立ちあがらうとすると、
「さうですか、それあ残念だなあ……」
堀田は、深い吐息といつしよに心底から名残り惜しさうに呟くのであつた。――「ぢや、また明日の晩、都合がついたらお君ちやんの家に来て呉れませんか、私は雨だらうが嵐だらうが屹度行つてゐますから……」
「えゝ、行きませう、屹度行きます。」
兵野は、堀田の涯しもない純情味に心からの魅力を感じさせられて、はつきりとさう云ふと勇ましく握手を求めた。
「あゝ、さうですか、必ず、ぢや待つてゐますよ。あゝ、私はもう、明日貴方に会ふことが出来なかつたら、死んでしまふかも知れませんよ。」
余程堀田も酔つた紛れの亢奮に駆られ過ぎてゐたとは云ふものゝ、さう云つてしつかりと兵野の手を握つた時、不図兵野がその眼に気づくと、涙が止め度もなくハラハラと流れてゐるではないか!
二
外まで出れば車があるだらうから、決してそんな心配をしないで呉れ――と再三兵野が辞退するにも関はらず、堀田は、しやにむに送らせて欲しい――と主張して諾かなかつた。
「それに私は、今夜は中野の阿母《おふくろ》のところへ行つて泊りたいんですから……」
兵野の行先きも中野だつたので、
「さうですか、中野にお母さんがいらつしやるんですか、そんなら伴れになりませう。」
「そんなに、妙に遠慮深いことばかり云はれちや困つてしまふな――ねえ、君、友達になつたんだから、これから何も彼も遠慮なしにして貰ひ度いな。そのうちにね、僕は一身上のことで、是非とも君に相談になつて貰ひたい話があるんだが、諾いて呉れる?」
「遠慮なく、それこそ――僕で役に立つことが出来たら、何だつて引き享ける。」
兵野は、ほんとうにそのつもりで誓ふやうに云ひ放つた。
「嬉しいな、僕は斯んな愉快な晩に出遇つたのは始めてだよ、ねえ、僕は生れながらに孤独の性質なんだが、決してその孤独を愛することは出来ないんだ――友達を探して、探し索めてゐたんだ、ところが今日までいろ/\な奴につき合つて来たが、好い加減な時分になると、どいつもこいつも申し合せたように僕を裏切る……」
「それあ君、考へようにもあるだらう、さう君のやうに激しく、何も彼も、一途に考へたら……」
「でも、君は――僕は大丈夫のやうな気がするんだ。はつきり云へば、僕は、さつき、あのおでん屋で、はぢめて君と言葉を交した瞬間に、霊感的に、この人こそは、俺のほんとうの友達になれるといふ一種の直感に打たれたんだ――」
堀田の云ふところは、なるほど、聞きように依つては堪らなく低級な歯の浮くやうな言葉ばかりで、これでは熱情的になればなるほど孤独に陥るのは当然のことだ――と兵野も思つたが、左う思へば思ふほど、珍奇な可憐味を覚へるばかりでなく、その、一本気の、素直な態度に次第に感情的に惑わかされて行くものを感じた。
「さうだ――」
と兵野も、グツと洋盃《こつぷ》を傾けながら重々しく唸つた。
「僕は、断じて君を裏切らない、大丈夫だ。」
「何んな類ひの相談を持ちかけても、決して驚ろかない?」
「驚くものか――君が若し、盗棒であつても、僕は君を悪人とは思はんよ。」
兵野が、大袈裟な形容を得意さうに、からからとわらふと、堀田も、
「やあ、そいつあ、好かつたな!」
と、はぢめて朗らかにわらつた。
「ぢや、出かけよう。俺は、斯う見へても仲々の親孝行者でね、と云つても天にも地にも阿母と俺とは、他に身寄りのない、たつた二人なんだが……」
「君は、いかにも親孝行者らしいと僕は思つてゐたところだ。」
「いづれ、阿母に紹介するから、会つて呉れるか。」
「会ふとも、悦んで――」
「俺の阿母は俺に似てやつぱし大変な心細がりやでね、万一俺に病気にでもなられたら何うしようか! なんて、そんな取り越し苦労ばかりしてゐるんだよ、厭になつてしまふ。」
「君は働いてゐるの?」
「勿論、僕の手一つで阿母を養つてゐるんだよ。そのうちにまあ、いろいろと聞いて貰ふが、斯んなところに僕が別居してゐるのは、僕が、帰りが遅かつたり何かすると阿母がとても心配して気の毒でならないので――斯んな風に離れてゐるのさ。何うかすると一ト月も二タ月も阿母に会はないことも、この頃ぢや往々だが、今ぢや、その点は漸く安心するようになつた。何しろ僕が、酒の気を含んで戻ると阿母は心配するし、さうかと云つて、この通りに僕は酒好きになつてしまつて、酒の気がなければ決して眠れないし……で、斯んな処に離れて、この頃は主に用事は手紙で済してゐるんだ。この分なら、阿母の方に変つたことさへない限り、半年や一年、このまゝに過したつて、心配もしまい。」
「ぢや、君、今夜は止めた方が好いだらう、俺達は大分酔つてゐるからな……」
「なあに、今夜は大丈夫だよ。これから、中野まで行くうちには醒めてしまふさ。それを、俺は、いつも阿母の間借りをしてゐる傍まで行つて、つい、あの、おでん屋に寄つて酔つ払つてしまふのさ。はつはつは……」
「一体、此処は何処なのさ――中野から、そんなに遠い処かね。」
兵野は、あの居酒屋の附近かとばかり思つてゐたので、斯う問ひ返すと、堀田は、何となく、あかくなつて、
「まあ、そんなことは気にしなくつても好いさ、そのうちに阿母のところといつしよに此処の番地も覚へて貰ふからね……」
云ひながら彼は、立ちあがると押入れをあけて和服を取り出し、今迄の洋服との着換へにとりかゝつた。――一間より他にないところなので堀田は兵野の直ぐ眼の先で、ワイシヤツを脱いだりしはじめたから、否応なくその様子が兵野の眼に映るのであつた。
「夜が更けたせいか、こいつは仲々寒いぜ、君、寒くはないか、よかつたら僕の羽織をもう一枚その上に羽おつて行かないか。」
堀田はワイシヤツを脱いで、胴着を着たり、しゆつ/\と鳴る絹の音をたてゝ長襦袢の袖を通したりしてゐた。
おや/\、あの襦袢の柄は何処かで見たことのある模様だな――不図、兵野は左う思つた。紺地の裾に、般若の面を染め出した長襦袢であつた。
(さうだ――)
と、酔眼を据えながら兵野は気づいた。いつか盗まれた親父の着物についてゐた襦袢の柄だつた。自分もしば/\あれ[#「あれ」に傍点]を着て歩いたものだつた――と思ひ出した。兵野は、それと似た襦袢を見て、過ぎ去つた頃のことなどを考へ出したり、思はぬ堀田が、自分の好みからか、同じ模様のものを着用してゐるのを見て、他合もない、因果めいた、新しい親しみを彼に覚えたりしてゐた。
「仲々、凝つた柄だね、それは――」
兵野は、見惚れながら呟いた。
「いや、恐縮だね、なあに平凡なものさ。」
云ひながら堀田は、重ねの着物をとりあげてゐた。
「僕も、大分前、それと好く似た柄の襦袢を――尤も親ゆづりのものだが、着てゐたことがあつたよ。」
「ほう、――そいつは悦《うれ》しいね、君と僕とは、して見ると趣味の上で、一脈の相通ずるものがあるのかも知れないね。ははは!」
次に堀田が、さつと身に着けた細い大島絣の着物を見ると、それも兵野が以前同じく父親ゆづりで着慣れてゐたものと、殆んど同一のものと見られた。
で、兵野は、もう一度、今の言葉と同じことが口に出かゝつたが、あまりそんなことばかりを続けて云ふのは、返つて空々しく堀田の気嫌をとるが如くに思はれさうな気がして、遠慮してしまつた。
三
細い露路を幾つも幾つも曲つたり、危なかしい溝板《どぶいた》を堀田に手をとられながら踏み越えたりして、凡そ、ものゝ二三町も、ぐる/\と同じような軒合ひばかりを歩いた後に、漸く広い電車通りに出た時には、兵野は酒の酔が次第に高まつて来て何とも危い脚どりであつた。
「しつかり僕につかまつて下さいよ。」
堀田は兵野の腕をおさへてゐたが、殆ど兵野は半身を彼にもたれかけてゐた。堀田は、あんなに飲んだにも関はらず殊の他しつかりとしてゐて、車を物色した。
無論、もう電車などは通つてゐなかつた。二筋のレールが、冴え冴えと水のやうに静かな路上に光つてゐた。
兵野は、一体、これは何処かしら? と思つて、眼を凝らして停留場のあたりや、あちこちの看板などを読まうとしたが、遠すぎて何うしてもわからなかつた。
「おい、今日のクラス会は大いに面白かつたなあ――貴様に酔はれたんで、俺はすつかり白々しくなつてしまつたぞ。」
火の番が通り過ぎた時、堀田は大きな声でそんなことを云つた。変な、ふくみ声だな! と兵野が思つて、見ると、堀田は外套の襟を深くたてゝ口にはマスクをつけてゐた。そして彼は、おそろしい酩酊者らしい声を張りあげて、
「あひはせなんだかよ――たてやまおきでよ――」
と歌つた。
車の通るのも稀になつてゐたので稍暫くたつてから漸く一台のタクシーを呼び止めた。
「中野まで――スピードを出してやつて呉れ。」
と堀田が命じた。
……橋を渡つた。永代橋かな? と兵野は思つたが、当てにはならなかつた。
「して見ると、さつきも相当永く車に乗つてゐたわけだつたんだね。」
「……さうとも。君は、あの時も一と寝入りしたんだぜ。今に、僕の居所もはつきり話すから、今日は、今夜だけは、何も聞かないで置いて呉れ。それにも、少々、事情があるんだからね。――まあ、もう少し飲まう。」
堀田は、ウヰスキーのポケツト壜を懐中からとり出して、兵野にすゝめ、自分も壜の口から飲んだ。
「あれ、上野の停車場ぢやないか、違ふかね。」
「違ふよ/\。――ところで君、君の家はあの居酒屋の直ぐ近くかね?」
「ちよつと離れてゐるが――あの辺まで送つて呉れゝば好いさ。」
「なあに、家の前まで送るよ。歩けさうもないぢやないか。車は、入るか?」
「入るものか――」
「中野――何町だ?」
「上《かみ》町だよ。」
「番地は――?」
「君が教へないから俺も云はんよ。」
兵野は、酔つ払ひらしい意地悪るで、そんなに云つた。
「まあ、好いさ――ぢや、名前を聞かせて呉れたまへな。天野……?」
……未だ、天野――と思つてゐるのか? と兵野は苦笑した。
「天野か……どうして君は左う思つたんだ?」
「だつて、君の外套に左う誌してあるぢやないか?」
「兵野だよ、兵野一郎といふんだよ。」
「それあ、失敬した。僕は、堀田冬夫といふんだが――」
「どうせ、明日また会ふんだから、お互ひの戸籍調べは後まはしに仕様よ……」
こんどは兵野の方で、面倒になつてしまつて打ち切つた。
「いや、御免/\――どうせ今、送つて行くところなんだから、表札を見れば解ることなんだ。」
と堀田はひとりごとのやうに呟いてゐた。「いろいろと話しにくいことは、手紙に書きたいと思つてゐるんでね。」
「僕は今、叔父が居た家にゐるんだよ。さう/\、表札と云へば、僕の表札は出てゐないよ、その代り家賃は無しだ……」
「ぢや、何々方――だね。」
四ツ谷から新宿にさしかゝつた頃になつて、兵野は漸く方角に気づいた。
四
兵野は、洋酒の度を過すことに不慣れだつたせいか、車から降りると、殆んど脚腰がまゝにならなかつた。
「よし、ぢや僕がおぶつて行くよ。」
堀田は甲斐甲斐しく、外套《とんび》を脱いで、それを兵野に羽織らせると、着物の裾を端折つた。昼間は、うら/\として好天気続きで、すつかり春めいた陽気であつたから兵野は外套を着てゐなかつた。
そんなに大袈裟に構えられると兵野は、恐縮して気をとり直したが、とてもひとりでは歩けさうもなかつた。――脚が地にすれ/\になるくらい兵野は、だらしもなく堀田の肩にぶらさがつて、空地を横切つたり、露路を曲つたりした。
「何番地さ、え、君、番地は? 次第に依つては、近道を行かう。」
「君は、この辺の地理に明るいの?」
「相当――。だつて阿母は五年も此方にゐるんだもの。」
「三十七番地だ――知つてゐるか?」
「……さうか。大概、見当はつくよ。だから、君は安心して好いよ。」
兵野は、堀田の肩で半ばうと/\しながら運ばれて行つた。
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