飲まないから反つて気分が悪いといふほど?」
 あまり私が打ち沈んで物をも言はず、稀に盃をなめては天井にばかり陰気な凝視を放つてゐるので母や妻は、私の帰りたての頃の元気好さに引き比べて、夫々案じてゐた。私は決して他の前では凧のことは口にしなくなつてゐた。思ひが内にたかぶるばかりだつたのだ。
「いつもは少々気のふさいでゐる時などは傍から口など出すと酷い疳癪を起すのに、今度は違ふ、口を利くのも退儀さうです、この頃何と云はれても怒つたこともありません。」と妻は、私の眼の前で物品の批評でもするやうにそんなことを母に告げたり、手をかけて私をゆすつたりした。「何時もならこんな真似でもしたら大変だ! ねえ、どうなさつたんですか? 頭の具合でも悪いの?」
「吾家には代々頭の病気の血統があるから気をつけないと……」と母は努めて嗤つた。
「頭の話は止してお呉れ。」私は、こわれものでも扱ふやうに静かに首を振つた。
「つまんないなあ、あたし折角泳ぎが出来るやうになつたのにまた海へも行かれなくなつてしまつた。危い海なんだからあなたが一処に行つて呉れないと……」
「一度思ひ立つたことなんだから、ぼつ/\と手工に取りかゝつたら如何なの、凧の? 頭だけは後まはしにして置いても好いぢやないか、そのうちに私が昔の知つた人を訊ねて見ようぢやないか。」
「そんなに珍らしい凧なら、好い加減でも関はないから早く拵えて見せて下さいよ、あしも好きよ、凧あげは。」
 妻も無造作に調子づいて傍からせきたてるのであつたが、寧ろ私はそれらの呑気さ加減が悲しい程羨ましかつた。
「いゝや、俺はもうそんなことを考へてゐるんぢやないよ。別段気分が悪いといふわけでもないんだ……他のことを……」と私は、故意に打ち消さうとしたが、声の調子はひとりでに可細く芝居沁みて消え込み、にわかに胸が一杯になる切なさに襲はれた。
「おや/\、もう泣き出すのかね。何といふ意久地のない男なんだらう、あの面を見ろ、泣くんならせめて顔を覆へよ。涙なんて見せられては此方は、笑ひたくなる位ひのものだ。」
「馬鹿野郎!」と私は、口惜し紛れに叫んで、ポンチ絵の虎が笑つた顔と仮りに定めた凧を睨みあげた。「泣いてゐるんぢやないや、これが俺のあたり前の顔なんだい。」
「頃合ひの風が吹いて来た、馬鹿にからかつてゐないで、もう少しのし[#「のし」に傍点]てやらう。釣りの懸け具合が至極うまいので、この分ではうつら/\と居眠りでも出来さうだ。春とはいひながら、とても快いお天気だなあ!」
「あゝ、あんなに小さくなつてしまつた! ボーフラのやうに小さくなつてしまつた。あいつが、たつた今あんな憎いことを云つて俺をからかつた奴かと思ふと、何だかおかし[#「おかし」に傍点]な気がする。おーい、おーい。」
 だが、もう何の応へもなかつた。私は、飽くまでも未練深く眼をかすめてボーフラの姿を仰いでゐた。
「駄目かなあ!」と私は嘆息を洩した。
「気分だつて紛れるよ、お拵えよ。」
「そんなに六ヶ敷いの? 頭と顔が?」と妻は、其処で私の気分をそれに惑《ま》ぎ込まうと思つたらしく膝を乗り出して私の顔をのぞき込んだ。
「うむ。」と私は、やつと凧のことに心を移したやうにして点頭いた。
「おばあさんが居たら解るんだけれどもね。いゝえ、私にも朧ろ気には解つてゐるんだけれど?」と母も一層の乗気を示して仔細らしく首をひねつた。
「駄目かなあ!」と私は、更に心底からの嘆息を洩した。私の脳裏にはボーフラの影だけがはつきりと印されてゐた。
「記憶! それに数学的の才能がない者には、記憶の見当が違ふので一切役に立たない。」
 母は自身が批難でもされたかのやうに思つて、顔をあかくした。「思ふと、私も上つてゐる小さい凧の姿しか思ひ出せない。」
「だん/\小さくなる。」と私は呟いた。……毛氈の上の私達が、重箱を開いて弁当をつかつてゐると、突然盆地の一隅からワーツといふおだやかならぬ波のやうな鬨の声が捲き起つた。見ると、あげ[#「あげ」に傍点]手の一団がまさしく蜘蛛の子を散らしたやうにパツと飛び散つた。
「喧嘩かな?」
「毎年一度は屹度だ!」
「早く仲裁が入れば[#「入れば」は底本では「入れは」]好いが?」
 私と祖母と母は、同時に斯う云つて箸を置いた。口々に彼等は何事かを叫んでゐるのだが、遠いので意味は解らなかつた。それにしても喧嘩にしては何だか妙だな? と私は思つた。と、見ると彼等は一勢にスタートを切つて此方に駈け出した。
 空には、何の変りもないボーフラがうつら/\と居眠りをしてゐる。
「お母さん、どうしたのでせう?」と母は祖母を振り返つて訊ねた。
「喧嘩かも知れない、立ちのこうかな?」
 間もなく一団の駈け手は、砂を巻いて、滑走する巨大な磁石になつて次々にあたりの群勢を吸ひ込み、最初
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