つたに相違ない。」
「それは、さうだ。」と私は、思はず実際の気持を表白した。私は、窓に腰を降して海の上を見晴した。寸暇もなかつた激務の間に、ふと休息を持つたやうな静けさを感じた。
「それは、さうだつて?」と彼女は、苛立つて唇を震はせた。「まア、何といふ図々《づう/\》しいことを平気で云ふ人だらう!」
「…………」
こんな海の傍に居ながら、この静かな夕暮の海辺の景色を眺める閑もなかつたのか! 俺は! ……私は、帽子をかむつた儘何時になく落着いて、暮れて行く海原を眺めてゐた。
「机の上にはペン一本載つてゐない。部屋中には本一冊見当らない。約束のハガキは書いたの、東京のお友達に?」
「さうだ、忘れてゐた、エハガキとペンとインキを買つて来て呉れ、大急ぎで――あゝ、悪いことをしてしまつた、此方で会ふ約束がしてあつたのだ。遊びに来て呉れるんだ。俺が此方に居る間に――」
「だから吾家に引き上げたら如何? どうせ斯んな風にしてゐる位ひなら……」
「云ふのは、たゞ面倒だから止めてゐるが俺は何もお前が相像してゐるやうな悪い生活を此処に来てしてゐるわけではないよ。」
「だからさ、吾家で凧でも拵えてゐれば好いぢやないの。折角思ひたつた仕事なのに?」
彼女は、私の想ひなどには夢にも気づかずに強ひて気嫌を直して、そんなことをすゝめた。
「余外《よけい》なことを云はないで呉れ。」と私は、弱々しく歎願すると、にわかに悲し気に頭をかゝえて其処に打ち倒れてしまつた。まつたく私は、吾家にゐると母や妻が空しく凧の製作を私にすゝめ、内心の私の火よりも強い凧の製作慾に惨めな幻滅を覚えさせられることの苦痛から逃れるだけの目的で此方に引き移つたのである。尤も私は、斯んな風にでもしたら凧のことなどは他易く思ひ切れて、創作にも取りかゝれるかも知れないといふ望みも抱いて来たのであつた。
独りになつて見ると私の凧に対する憧憬は、何のはゞかる者もなくなつた為か、吾家に居る時の状態とは全く変つて、露はに身を焦し始めてゐた。私は、部屋に居ても寸分の間も凝つとしてはゐられなかつた。腕を組み首をかしげて、檻の中の動物のやうに苛々と歩き廻つた。暫く遠ざかつてゐた洋酒に私は再び慣れて、一回りしては一杯|宛《づつ》傾けた。壜を片手にして私は回り灯籠の影絵のやうにグル/\と堂々回りをした。床に打ち倒れて、ボーフラのやうに身を悶えた。
前へ
次へ
全22ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング