なかつた。唖然として立ち竦んだ儘だつた。忽ち、この驚くべき Cross country racer 達の目眩しい流れを、地をゆるがせて一陣の風と共に私達の眼前を通過すると、奇体に猛烈なあの Fox Trot を踏みながら、まつしぐらに野を越え、丘を蹴り、畑をよこぎつて見る間に指呼の彼方に影を没した。
「あの凧の糸が切れたのだらうか、さつきと同じところに止つてゐるやうに見えるけれど――」と私は、漸く言葉を得て嘆声を交へながら母に訊ねた。
「ほんとうにね……?」と母も蒼ざめた顔に不思議な眼を視開いて、私と同じく呆然と空の小さな凧を見あげた。「あれ位ゐの高さになると、一寸とは遠ざかつて行くのが解らないのだね!」
祖母は、丘に腰を降すと声を挙げて神に念じた。そして、青野の凧が村としての自慢の凧であることや、二度と拵えるわけに行かない昔からの丹精がこもつてゐることや、あれは他所のと違つて張り合ひなどはしないでも済まされてゐる特別な凧である。だから誰も彼もが自分の凧を棄てゝあのやうに血相を変へて追ひかけて行つたのだ等のことを、涙を拭きながら述懐した。
母の眼にも涙が宿つてゐた。母は震え声を忍ばせて、
「あれあれ! 解るよ、御覧な、もうあんなに小さくなつた。」と私に告げた。
凧は、ほんとうのボーフラのやうに小さくなつて静かに浮いてゐた。凧のことはそれほどでもなかつたが私は、祖母や母の涙に気がつき、そして小さな凧を仰いでゐると、だん/\に涙がうすら甘く込みあげて来るのに気づいた。睫毛がぬれて凧の姿が眺めにくゝなつて私は、まだ切《しき》りに上ばかりを仰いでゐる母の蔭にかくれて、そつと首垂れた。凹地の広い芝生は、もう祭りの翌日のやうにひつそり閑として、竹の皮や紙屑と一処に鮮やかな陽炎がゆら/\としてゐた。
「あれツきりなんだ、だから如何しても思ひ出せないんだ、小さ過ぎる……」
「小さいのを拵えるんだと云つてゐたぢやありませんか、あなたは?」と妻が云つた。
「凧のことぢやないんだよ。他の……」と私は、言葉を濁したが、あくまでもはつきりと浮遊してゐる小さい凧の印象以外のことでは、何の紛す言葉も知らなかつた。凧を話材にされると私の気分は滅入り込むばかりであつたにもかゝはらず――。
解つてゐる部分だけを眼近く取りあげて幾度となく私は、夢を払つて細工に取りかゝらうと振ひ立つたが、いつの間
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